JR田浦駅から、国道16号の上り線・下り線を横断して、谷戸の奥のほうに向かって10分ほど歩いて行くと、通称「のの字橋」や「のの字坂」などと呼ばれている、小さなループ橋があります。「のの字橋」や「ループ橋」という表現を使いましたが、橋脚部分は5mほどしかなく、実際にはループ橋風のらせん状の坂道と言ったほうがしっくりくるかもしれません。
短い橋脚部分の正式名称は「十三峠陸橋」と言います。橋梁名は、坂道を登った先に続く旧浦賀道の尾根道「十三峠」に由来しています。浦賀道は、江戸時代、浦賀奉行所に向かうために整備された東海道の脇街道ですが、のの字橋(のの字坂)は昭和期に造られたもので、この坂道自体は浦賀道のルートではありません。
のの字橋(のの字坂)という名前の由来は、もちろん、その道路の形状によります。ひらがなの「の」の字を描くように、1周半ほどグルグルっと回転しながら登り降りします。地図や航空写真で真上から確認すると分かりやすくのの字で、明らかに目立つ存在ですが、実際に現場に立って眺めてみても、十分のの字感をかもし出しています。
のの字橋(のの字坂)の中心部分は、田浦1丁目公園という街区公園になっていて、すべり台やブランコなど、子ども向けの遊具が設置されています。

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城の台砲台建設のため造られたという のの字橋

田浦地域文化振興懇話会によって2005年に発行された冊子「田浦をあるく」によると、この通称・のの字橋(のの字坂)は、戦前、城の台砲台を築く際に、物資を運び上げるためにつくられた道路だと言います。
しかし、戦後すぐの1946年(昭和21年)に米軍によって撮影された航空写真や、1948年(昭和23年)に国土地理院の前身機関が発行した地図「1/25000 横須賀」(大正10年測図昭和22年資修・昭和23.1.30発行)では、現在ののの字橋(のの字坂)の道すじは確認できません。軍事機密のため、地図では秘匿とされていたとしても、航空写真で確認できないということから、城の台砲台建設のための軍道は一時的なものだったのかもしれません。
あるいは、1948年(昭和23年)の地図でも、田浦駅方面から谷戸の奥のほうに向かって、現在ののの字橋(のの字坂)とは逆方向(反時計回り)に曲がりながら、「のの字」ではなく「Sの字」を描きつつ登って行く道は確認できます。車が通れるほどの道幅だったのかまではわかりませんが、こちらが当時の軍道だったのかもしれません。
その後の、1963年(昭和38年)に撮影された航空写真では、まだ新しい印象ののの字橋(のの字坂)が確認できます。
のの字橋(のの字坂)を登った先に続く十三峠周辺では、戦後の食糧不足対策として、1948年(昭和23年)より農地開拓がはじめられました。十三峠の傍らには、十三峠開拓農業協同組合が建立した「開拓記念碑」が残されています。
また、城の台砲台の跡地には、1960年(昭和35年)に旧横須賀市営田浦月見台住宅(32棟・74戸の平屋住宅群)が建設されています。
このようなことから、現在のようなかたちでのの字橋(のの字坂)が本格的に整備されたのは、戦後、十三峠周辺や市営田浦月見台住宅を開拓・開発するための資材搬入用であったり住民のアプローチ道としてであったと考えられます。

地理的要因と時代的背景によって誕生したループ橋

ループ橋のメリットとしては、限られた敷地内で、大きい高低差をできるだけ緩やかに克服できるということが挙げられます。関東周辺では、1981年(昭和56年)に完成した伊豆の河津七滝ループ橋が有名です。高速道路のJCTやIC、自走式の立体駐車場などでも同等の手法を用いられることがあります。
狭い谷戸が数多くある三浦半島でも有効な手段のように考えられますが、のの字橋(のの字坂)のような場所は、ほとんど見られません。わざわざ谷戸の奥を車で登れるようにするということは、その先にそれ相応の場所がある必要があります。城の台砲台のためだったにしろ、十三峠開拓や市営田浦月見台住宅のためだったにしろ、のの字橋(のの字坂)にはその動機がありました。
たとえば、高度経済成長期以降に山を切り開いて開発された大規模な住宅地ならば、もっと大胆に造成されて、幅員の広いアプローチ道が建設されていたことでしょう。地理的な要因とともに、戦前~戦後の資金難やまだモータリゼーション黎明期だったという時代的背景もあいまって、知恵や工夫で実現した手段だったのかもしれません。

のの字橋(のの字坂・十三峠陸橋)周辺の見どころ


