盛福寺は、江戸時代初期に北鎌倉・円覚寺の末寺として創建されたという、横須賀・田浦の谷戸奥に建つ古刹です。創建当初に建立されたとみられている山門(四脚門)は、横須賀市内最古の寺院建築です。
この山門の前を通る道は、江戸時代に東海道(保土ヶ谷宿)と浦賀奉行所を行き来するために整備された旧浦賀道です。また、大正初期に、横須賀軍港向けに相模川支流の中津川から逸見浄水場まで水道管が施設された、横須賀水道みちでもあります。当初この水道みちのために開削された盛福寺管路トンネル(現在は通行禁止)は、戦前、逗子・沼間方面から横須賀軍港に通う人たちの通勤路として利用されていたとも言います(沼間に東逗子駅が開業したのは戦後のことです)。
江戸時代~戦前まで人通りが多かった盛福寺の門前も、行き交う人の姿は多く見られません。今では、戦後、盛福寺境内に併設された田浦幼稚園の子どもたちの元気な声や、時おり谷戸に響き渡る電車の走行音が目立つくらいです。
山号 | 田浦山 |
宗派 | 臨済宗円覚寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 釈迦如来座像 |
創建 | 江戸時代初期 (または、鎌倉時代) |
開山 | 玉峯法葩 |
開基 | ― |
盛福寺のある谷戸は、三浦半島で2か所しかない、横須賀線と京急線が、トンネル内以外で立体交差する場所の一つです(もう一か所は逗子駅/逗子・葉山駅付近)。横須賀線の開通は1889年(明治22年)で、山門前の旧浦賀道・横須賀水道みちに並行するかたちで、谷戸を東西に縦断するように通されました。京急線の開通は1930年(昭和5年)で、狭い谷戸を横断するように、横須賀線の上を陸橋で跨いで敷かれました。
まち外れの谷戸奥で静かにたたずむ盛福寺ではありますが、江戸時代から昭和前期までの横須賀発展の歴史を、ひっそりと見守ってきた生き証人のような存在でもあります。

INDEX
横須賀市内最古の寺院建築である盛福寺山門

盛福寺の山門は、主柱に4つの脚が付いている禅宗様式の四脚門で、16世紀末から17世紀初頭の建築と見られています。横須賀市内では最古の寺院建築とされていて、市指定重要有形文化財となっています。当初は茅葺きの屋根でしたが、昭和中期に銅板葺へ葺き替えられています。
盛福寺の谷戸から山を隔てた反対側に位置する逗子・沼間にも、盛福寺の山門とちょうど時代を前後するころに建立されたとみられている四脚門が残されています。1590年(天正18年)に創建された曹洞宗・海宝院の表門がそれで、やはり、禅宗様式の特徴が見られる四脚門です。こちらは茅葺屋根のまま残されていて、より建立当初の姿を留めていると言えます。
ひと山隔てているとは言え、隣接した地域に、同じ時代の同じ様式の山門が、エリア最古級クラスの寺院建築として残されているということは興味深いものです。

複数の説が伝わる盛福寺創建の歴史

往時は七堂伽藍をほこっていたという盛福寺の堂宇は、山門を除いて、江戸時代後期の火災などによって失われてしまったと言います。現在の本堂は、1896年(明治29年)に再建されたものです。
盛福寺の由緒は、江戸時代初期に円覚寺の末寺として創建されたというものが通説のようです。一方で、境内に掲げられている「盛福寺案内」によれば、「最初は天台宗の寺院(※1)として開創され、鎌倉北条の時代に臨済宗円覚寺派に転属し、当初は円覚寺塔頭・続燈庵の隠居寺(※2)であった」と言います。また、山門には「慶長2年(1597年)屋根葺換をなす(※3)」との棟札が納められているとも書かれています。
※補足1:天台宗の寺院の歴史は、奈良時代にまでさかのぼれるような場合も多いです。
※補足2:続燈庵の創建は執権北条氏が滅んだ後の、南北朝時代(室町時代前期)です。
※補足3:江戸時代がはじまる前には、山門が建立されてからそれなりに時間が経っていたということになります。
けっしてめずらしいことではありませんが、長い歴史を持つ寺院には栄枯盛衰がつきものです。もともと盛福寺の前身となる寺院がこの場所にあって、火災等によって衰退したり、また再建されたりしながら、歴史を受け継いできたということなのかもしれません。古い史料も失われているでしょうし、このような場合、なにを持って創建とみなすのかは難しい判断になりそうです。
秋田城之介義景の守り神だった田浦稲荷

盛福寺の本堂に向かって右手には、田浦稲荷が祀られています。やぐらのようにくり抜かれたコンクリート製の洞穴に、小さな祠が鎮座しています。
白山(歯の神)、天神(勉学の神)、弁天(福富の神)もあわせて祀られています。
この稲荷はもともと、城の台(旧横須賀市営田浦月見台住宅のあたり)に屋敷を構えていた、鎌倉時代前期の武将・秋田城之介義景(安達義景)の守り神だったもので、1596年(慶長元年)に盛福寺の鎮守として境内に遷されたと言います。

春には桜などが咲きほこる地域住民憩いの旧浦賀道
盛福寺の前を通っていた浦賀道は、保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る、いわゆる「東浦賀道(東回り浦賀道)」と呼ばれているものです。この他に、戸塚宿から鎌倉・逗子・葉山を経由して横須賀の内陸部を横断して浦賀に至る「西浦賀道(西回り浦賀道)」もありました。
盛福寺から浦賀方面へは、静円寺、長善寺、大田坂を経由して、浦賀道で最大の難所だったとされている十三峠へと続いていきます。もちろん周辺環境は大きく変わりましたが、この区間は現在もほぼ当時のルートをたどることができます。
もう一方の保土ヶ谷宿方面は、盛福寺横の階段から丘陵地へ続いていましたが、港が丘の住宅地開発によって大きく途切れています。
人通りも少なくなった盛福寺前の旧浦賀道ですが、春には河津桜や枝垂れ桜などの花々がきれいに咲きほこっている様子が見られ、今では地域の住民に親しまれている道であることが分かります。

盛福寺周辺の見どころ


