横浜金沢の洲崎神社は、江戸時代までは「大六天社(第六天社)」と呼ばれていた、旧洲崎村の鎮守です。
大六天社は、もとは長浜に鎮座していました。しかし、鎌倉時代後期の1311年(応長元年)に発生した大津波によって、長浜千軒と呼ばれた漁村が水没してしまい、家を失った住民の一部とともに、洲崎村に移ってきたと伝えられています。
「第六天」とは、仏教の世界観において欲界の最高位(六欲天の第6位、すなわち六欲天の中で人間界からもっとも遠い存在)にあたる他化自在天を指し、他者の楽事を自由に自分のものにすることができる天界とされています。
江戸時代までの大六天社は龍華寺の塔頭(境内またはその周辺に建つ付属の小寺院)・華蔵院によって管理されていましたが、明治維新後の神仏分離令により仏教色が取り払われ、誉田別命を御祭神とする「洲崎神社」になりました。
| 主祭神 | 誉田別命 |
| 旧社格等 | 村社 |
| 創建 | 不詳 ※前身の大六天社は1311年(応長元年)以前 |
| 祭礼 | 7月第2日曜日 例大祭 9月15日 天王祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
江戸後期の浮世絵師・歌川広重が描いたことで有名な「金沢八景」の一つ「洲崎晴嵐」は、このあたりの情景だとされています。江戸時代前期に編さんされた鎌倉や金沢の地誌「新編鎌倉志」には、 “洲崎の民家連りたる所を、山市晴嵐と云。” とあります。
現在の洲崎神社周辺は住宅や商店に囲まれた内陸にありますが、広重の生きた時代には、称名寺方面から続く細長い半島にありました。東側は乙舳海岸(現在の海の公園から野島公園にかけての埋め立てられる前の自然海岸)が、西側は瀬戸内海や内川入江などと呼ばれた平潟湾から続く大きな入り江が迫っていて、海に囲まれた環境でした。
今はその面影も、「洲崎」という地名の中くらいにしか探すことができません。
INDEX
かつての金沢のメインストリートに鎮座していた大六天社

洲崎神社境内の前を通る道路は、東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る、旧浦賀道(金沢道)です。1969年(昭和44年)までは国道16号に指定されていて、長くこのあたりのメインストリートだった通りです。
かつての洲崎神社(大六天社)は、今よりやや南側(現在の横浜金沢八景郵便局あたり)の家津良町(八頭羅町、八面町 ※史料や時代によって異なる漢字があてられていますが「やつら」らしい)を通る道路の真ん中に鎮座していました。しかし、1903年(明治36年)にこの旧国道が改良される際、現在の龍華寺の前に遷されました。
地域の神様が集められた明治~大正期の洲崎神社

洲崎神社には、明治後期に泥亀の日枝神社(御祭神:大山咋命)とその末社・稲荷社2社(御祭神:倉稲魂命、太田命)を、大正前期には泥亀姫小島の十二天社(御祭神:磐長比売命)が合祀されています。
また、かつては隣村の町屋村と共同で祀っていたという天王社(御祭神:建速須佐之男命)も祀られています。
現在の洲崎神社の社殿は、江戸時代後期の1838年(天保9年)に再建され、現在地への遷座後の1909年(明治42年)に拝殿を増築したものと伝えられています。

「安房の三名工」後藤利兵衛の手による雄獅子・雌獅子
洲崎神社には、雄獅子・雌獅子一対の黄金の獅子頭が安置されています。この獅子頭は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年)、「安房の三名工」の一人と称される宮彫り師・後藤利兵衛の手により製作されたものです。
戦前までは、祭礼の際に、若衆4人に担がれて、町内を巡行していたと言います。この獅子頭には、はしかなどの流行り病の子どもがお獅子の口に2、3回かまれると早く良くなるという、厄除けのご利益があるとされ、町内の守り神として信仰されていました。

洲崎神社周辺の見どころ
シーサイドライン沿線方面


金沢八景駅方面


称名寺・金沢文庫駅方面






