横須賀・津久井にある東光寺は、奈良時代の天平年間(729年~749年)、奈良の大仏の建立を指揮した高僧・行基が当地を訪れた際、三浦富士の神様のお告げによって創建されたと伝わる、高野山真言宗の寺院です。
その後、荒廃していましたが、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて活躍した三浦一族の武将・津久井次郎義行が時の住持・上野阿闍梨と中興し、祈祷所としました。東光寺・本堂の裏手には、津久井次郎義行とその一族の墓と伝わる五輪塔が並んでいます。
山号 | 七宝山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師如来 |
創建 | 天平年間(729年~749年) |
開山 | ― |
開基 | 行基 |
東光寺は、三浦富士登山口の一つの近くに位置しています。現在の本尊・薬師如来は三浦富士の本地仏(神の本来の姿とされた仏)とされ、東光寺は「三浦富士大権現」とも称されてきました。
現在も東光寺の山門には「三浦富士大権現」と書かれた木札が掲げられていて、神仏習合の時代に三浦富士(浅間神社)の別当寺(神社を管理する寺院)だったことをうかがい知ることができます。

INDEX
三浦富士の神様のお告げによって創建された東光寺

東光寺の歴史は、今から1300年ほど前までさかのぼることができます。寺の縁起には、神仏習合の時代らしい、全国的に名高い高僧と土着の山の神とのエピソードが残されています。
奈良時代の高僧・行基は、諸国行脚の折、この地で草庵を結ぶと、すべての苦しみ悩んでいるものを救うため、地蔵菩薩像を造りました。
ある夜、行基の夢枕に、三浦富士より来た神様の化身と名乗る老翁が現われると、生きとし生けるものすべての安楽のために、薬師如来の像を刻むよう告げたと言います。夢から覚めると、行基はすぐに三浦富士に登り、夢に現われた神様を祀りました。現在、三浦富士に祀られている浅間神社(奥宮)のはじまりと言えます。
その後、行基は草庵に戻ると、薬師如来と日光菩薩・月光菩薩、十二神将の像を彫刻し、一宇を建立しました。これが東光寺のはじまりと伝えられています。
津久井浅間神社(里宮)の由緒では、「行基が駿河国の浅間神社を勧請したのがはじまり」とされています。もっと遠い昔にどのように語られていたかは分かりませんが、これは明治維新以降の神仏分離により仏教的要素が排除された後の解釈とも考えられます(行基という僧が登場してはいますが)。東光寺と浅間神社・三浦富士の関係が深かった時代には、浅間神社の歴史が東光寺の由緒と混ぜて語られることもあったのでしょう。


三浦富士の本地仏や旧牛頭天王社本尊の薬師如来を安置

現在の浅間神社・里宮は、津久井浜駅に隣接した、東光寺からは離れた場所に鎮座しています。しかし、1928年(昭和3年)までは三浦富士の登山道の入口付近に鎮座していたと言い、かつては地理的にも近い場所にありました。
この浅間神社・里宮に合祀されている八坂神社は、明治維新までは牛頭天王社でした。江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、その本尊は東光寺に安置されているとあります。この祇園本地薬師如来は、現在も東光寺で秘仏として安置されています。
「新編相模国風土記稿」では大日(大日如来)が東光寺の本尊とされていますが、現在の本尊は、三浦富士の本地仏とされる薬師如来です。かつては東光寺の薬師堂の本尊でしたが、関東大震災で旧本堂が被災した際、薬師堂を移築し本堂としたため、現在は東光寺の本尊になっています。この薬師如来は、室町時代前期ごろの作と推定されています。
また、東光寺の山門には、二体の金剛力士像が安置されています。木造ではなく銅造で、江戸時代中期の1747年(延享4年)造立の銘があります。昔は、夜になると海岸までその瞳の輝きが見えたと言います。

津久井次郎義行の墓と謎に包まれたその生涯

東光寺を中興した津久井次郎義行は、三浦氏宗家(本家)の初代とされる三浦為通(村岡為通)から数えて第3代当主にあたる三浦義継の子で、第4代当主・三浦大介義明の弟です。
この時代の三浦一族は、それぞれ三浦半島各地に所領を持っていて、その地の地名を苗字として名乗りました。津久井義行は、もともとは「三浦義行」ですが、三浦半島の津久井に所領を与えられたため、「津久井」姓を名乗りました。
津久井義行の居城・津久井城は、東光寺の向かいの峰屋敷と呼ばれる小山にあったと伝えられています。この場所を津久井氏は、義行にはじまり、高行・義道・高重と4代に渡って相続しました。
東光寺・本堂の裏手には、津久井次郎義行とその一族の墓と伝わる五輪塔が並んでいます。中央の五輪塔が、義行の墓とされています。
津久井義行の活躍が記された史料はほとんど残されておらず、その生涯は詳しくは分かっていません。
平安時代末期の1180年(治承4年)、第5代当主・三浦義澄を大将とする三浦一族の軍勢は、源頼朝の伊豆国での挙兵に呼応し、三浦半島を出発して相模湾沿いを西へと向かいます。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、その中の顔ぶれに、津久井義行がいるのを確認できます。
このとき、89歳とかなりの高齢だった三浦義明は三浦一族の本拠地である衣笠城に残りますが、義明の一つ下の弟である津久井義行もかなりの高齢だったはずです。戦力と言うよりは、一族の重鎮としての遠征だったのでしょう。
この後、三浦一族の軍勢は平家方の反撃にあい、衣笠城まで押し戻されます。三浦義明は衣笠城で討死しますが、そのすきに、三浦義澄ら三浦一族の主力の軍勢は舟で久里浜から房総半島に逃れます。このとき、津久井義行も舟で房総半島に渡ったのか、兄・義明と運命をともにしたのかは、分かっていません。




東光寺周辺の見どころ
武山ハイキングコース方面



津久井浜駅方面


