米が浜通の横須賀共済病院裏手の山すそに鎮座する神明社は、かつて同神社があった場所に、1979年(昭和54年)に再建された神社です。旧神明社はこのあたり一帯を村域としていた深田村の鎮守でしたが、1883年(明治16年)、この背後の山に旧日本陸軍の砲台建設の計画が持ち上がると、今の上町商店街の外れの高台(現在の深田台)に遷座されました。
しかし、米が浜地区の氏子にとって山の上に移転した深田台の神明社まで参拝するのは不便だったため、第二次世界大戦後に返還された旧鎮座地に別宮として再建されたのが、現在の米が浜神明社です。
主祭神 | 大日孁貴尊 |
旧社格等 | ― |
創建 | 1691年(元禄4年)以前 ※深田神明社から独立・再建されたのは1979年(昭和54年) |
祭礼等 | 5月下旬 例大祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
旧神明社の詳しい由緒は分かっていません。江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」に、深田村の鎮守として神明社の名前が見えるものの、それ以上の情報は記されていません。
現在の深田台に移転後、社殿を建て替える際、いくつか棟札が出てきたと言います(棟札とは、建築の築造や修復といった記録を木札などに書き、棟木や梁などの外部からは見えない場所に取り付けておいたもの)。その中のもっとも古い記録が「元禄4年8月」のもので、江戸時代中期にはこの場所(現在の米が浜通)に鎮座していたと言う創建時期の目安については確認されました。
「新編相模国風土記稿」によれば、江戸時代後期の深田村の家数は19軒とごく小さな村でしたが、紆余曲折がありながらも、脈々と受け継がれてきた歴史ある神社です。
「砲台山」になった鎮守の杜
横須賀港の入口にあたる海域を見下ろすことができる米が浜神明社背後の山は、かつて「砲台山」とも呼ばれ、軍事上重要な山でした。明治時代には、米ヶ浜砲台など、旧日本陸軍が複数の砲台を建設しました。戦後、この砲台跡に整備された平和中央公園(旧中央公園)では、今でも砲台の遺構の一部が残されています。
現在では埋め立てによって海岸線は遠のいていますが、明治前期の高台に移転する前の旧神明社は、海の近くに鎮座していました。この当時の砲台は、航空機に対してではなく船舶に対するものであったため、砲台のすぐ下の海の方角に位置する旧神明社は、実戦時はもとより、築造や演習の際にも支障をきたすということだったのでしょう。

鎌倉時代に日蓮が上陸した米が浜

旧神明社のすぐそばまで迫っていた海岸は、鎌倉時代、日蓮聖人が鎌倉をめざして房総半島から猿島を経由して三浦半島に渡って来た際、最初に上陸した場所と伝えられています。
米が浜神明社の鳥居を出て、左斜め前方の路地に入ると、このときに日蓮が開いたとされる龍本寺に続く石段があります。その途中には、日蓮が上陸後しばらく庵を結んだとされる岩窟「お穴さま」も残されています。
日蓮が米が浜海岸に上陸した際、これをお世話した住民がいたため、すでに鎌倉時代にはこのあたりに集落があったとみられます。
集落があれば、神社の一つもあったのではないかと考えられますので、旧神明社の歴史も、このころまでさかのぼることができるのかもしれません。
なお、現在、米が浜神明社が鎮座する場所の地名は「横須賀市米が浜通」ですが、古くは深田村の村域(1889年(明治22年)に周辺の4つの村と合併して豊島村(後の豊島町)となり、1906年(明治39年)に横須賀町(後の横須賀市)へ編入)で、戦後、このあたりの町名地番整理が行われるまでは「横須賀市深田町」でした。米が浜通のあたりはとくに、「深田観念寺」や「観念寺通り」などとも呼ばれていましたが、現在では見られない地名です。

米が浜神明社周辺の見どころ







