源太塚は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・梶原景季の片腕が埋められていると伝わる、直径3メートルほどの小さな塚山です。ツツジ庭園で有名な鎌倉・笛田の仏行寺の裏山にあります。「源太塚」という塚名は、「源太」という景季の通称からきています。
梶原景季は父・景時は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝、第2代将軍・源頼家の最側近の一人でした。しかし、たび重なる讒言がもとで、三浦義村や和田義盛らを中心とした有力御家人らの糾弾にあい、失脚しました。
鎌倉を追われた梶原景時・景季父子ら一族は京へ向かいますが、その途中、駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区興津)で討ち取られてしまいました。
源太塚のある仏行寺には、梶原景季の後を追って自害した景季の妻・信夫の霊を弔うため建立されたという伝承もあり、近隣には信夫が祀られた「しのぶ塚」もあります。
源太塚のまわりには、塚山を取り囲むようにツツジが植えられています。ベンチも備え付けられていて、ツツジの季節には穴場のお花見スポットでもあります。

源平の覇権争いと梶原景時・景季父子の通称名

梶原景季の父・梶原景時は、1180年(治承4年)に源頼朝が平家討伐のため石橋山で挙兵した際は、平家方についていました。この戦いで敗れた頼朝は、山中に身を潜めていましたが、景時がこれを見逃した結果、後に形勢を逆転させた頼朝の信任を得たというエピソードが有名です。景時は頼朝から、御家人を束ねる立場である侍所の所司(次官)に任命されています。
梶原氏は、桓武平氏をルーツとする坂東八平氏の氏族です。坂東八平氏は、「平氏」とは言え、平安時代後期には東国に強い影響力を持っていた源義朝ら清和源氏に仕える氏族が多くみられました。
しかし、1160年(平治元年)に発生した平治の乱で義朝が敗死し、平清盛率いる平氏一門の権力が高まると、梶原氏や大庭氏のように今度は平家方につくものと、三浦氏や土肥氏のようにそれでも源氏に忠義を尽くすものとに分かれることになりました。
その後、源頼朝が台頭すると、三浦氏や土肥氏以外の坂東八平氏の多くは、最終的に源氏方につくようになり、幕府の要職を務めるものも多く出ました。
梶原景時は梶原「平三」景時と名乗っていましたが、子の梶原景季は梶原「源太」景季と言いました。
「源太」は、梶原氏が源頼朝に仕えるようになってからの名乗りであると考えられます(梶原景季の生誕は、源義朝の死没より後(=平家方になった後)とみられているため、幼名というわけではなさそうです)。直前まで平家方であったことから、頼朝に忠誠心を示すためだったのかもしれませんし、頼朝の命(名付け)だったのかもしれません。
一方、「平三」は、桓武平氏の末裔であることから付けられたのでしょう。たとえば、同じ桓武平氏である三浦氏の三浦義村の通称は「平六」でした。源氏に仕えながらも、桓武平氏の末裔であるという家柄のほうを重視してのことなのかもしれません。
梶原景季と佐々木高綱が名馬を操り競った「宇治川の先陣争い」
梶原景季の武勇で有名なエピソードとして、宇治川の戦いでの先陣争いがあります。
1183年(寿永4年)、平家討伐をめぐる争いのなか、源頼朝と木曽義仲(源義仲)が戦った宇治川の戦いで、それぞれ頼朝から与えられた名馬を操り、梶原景季と佐々木高綱が敵陣への一番乗りを争ったという逸話で、軍記物語の「源平盛衰記」や「平家物語」に描かれています。
結果は、「池月(生唼)」に乗る佐々木高綱が、「磨墨(摺墨)」に乗る梶原景季を言葉巧みにだまして、一番乗りを果たしています。
「池月」はもともと景季が頼朝に所望していた名馬とされていて、景季は高綱に、二重の敗北を味わったことになります。景季が頼朝から高綱に「池月」を与えられたと知らされた場所には、「源太坂」(静岡県富士市)という地名が残されています。
宇治川の戦い自体は、この二人の活躍もあり、源範頼や源義経、梶原景時が率いる頼朝軍が木曽義仲を討ち取り、勝利しています。

源太塚周辺の見どころ







