梶原太刀洗水は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将・梶原景時が、同じく平安時代末期から鎌倉時代前夜にかけて活躍した武将・上総広常を討った後に、血の付いた太刀を洗った湧水とされています。
梶原太刀洗水は、朝夷奈切通(朝比奈切通し)の鎌倉側の入口近くにあり、「鎌倉五名水」の一つに数えられています。
鎌倉霊園正門前のバス停や鎌倉駅から出ているバスの行き先で見られる「太刀洗」という名前は、この梶原太刀洗水に由来しています。
INDEX
ともに鎌倉幕府創設の貢献者だった梶原景時と上総広常
梶原景時も上総広常も、源頼朝による鎌倉幕府創設に大きく貢献した武将でした。
梶原景時は、1180年(治承4年)に源頼朝が石橋山で挙兵した際は平家方についていましたが、敗走して山中に身を潜めていた頼朝と対峙したもののこれを見逃して、後に形勢を逆転させた頼朝の信任を得たというエピソードが有名です。景時は頼朝から、御家人を束ねる立場である侍所の所司(次官)に任命されています。
上総広常は、坂東(関東)で最大の兵力を持っていたとされ、初期の平家方との戦いにおいてその力を発揮しました。
しかし、その勢力の大きさがゆえに、謀反の疑いをかけられてしまい、頼朝の命によって、梶原景時に暗殺されたとされています。
その梶原景時は、頼朝の死後、三浦義村を中心とした有力御家人たちからの糾弾によって、最期を迎えることになります。
この梶原景時の変は、源氏将軍の滅亡と北条氏の執権体制の確立の最初の一歩ともいえる大きな事件でした。また、三浦義村が歴史の表舞台に顔を出した最初の出来事でもありました。
有力御家人たちが館を構えた六浦道沿いの十二所
梶原景時と上総広常の鎌倉市中での館(屋敷)は近く、梶原景時邸は明王院の側に、上総広常邸は朝夷奈切通(朝比奈切通し)沿いにあったとされています。現在の地名では十二所となるこのあたりには、鎌倉幕府の政所別当であった大江広元の館もあり、現在でこそ鎌倉の外れのイメージがある十二所も、中世には、鎌倉の外港(貿易港)として栄えた六浦(現在の横浜市金沢区)と幕府を結ぶ重要なルート上にある土地でした。そのため、この六浦道(現在の金沢街道)沿いには多くの御家人が館を構えていました。幕府の役所や源頼朝の住まいである大倉御所(大倉幕府)が築かれたのも、この六浦道沿いです。
なお、房総半島の上総国に所領があった上総広常は、六浦から東京湾経由で鎌倉と行き来しやすいため、この地に館を構えたと考えられます。
そんなご近所さん同士だった梶原景時と上総広常は、1183年(寿永2年)、双六を興じている最中に、景時によって広常の首をかき切られたことによって、ご近所付き合いも終わりを告げることになりました。
非常に大きな軍勢をもっていた上総広常でも、その最期はあっけないものでした。遊んでいる最中に至近距離から斬られたのでは、どうすることもできなかったのでしょう。
上総広常の墓または供養塔と伝わる五輪塔「上総介塔」は、梶原太刀洗水とは朝夷奈切通を挟んで反対側にあたる横浜側(六浦側)の切通入口付近に建っています。
梶原太刀洗水周辺の見どころ
以下のリンク先からその他の【上総広常ゆかりの地】もご覧ください