極楽寺坂切通は、鎌倉の長谷・坂ノ下と、極楽寺や七里ヶ浜、藤沢方面を結ぶ古道です。「極楽寺切通し」と表現される場合もあります。「鎌倉七口(鎌倉七切通)」の一つに数えられていますが、七つの切通の中で唯一国の史跡に指定されていません。
現在の極楽寺坂切通は、自動車が無理なく対面で通行できる車道になっていて、古道の面影は道の両側で高く切立った崖に残るだけです。
しかし、この深い崖も近代に入ってから開削されたものではあります。往時の切通は坂の南側にある、現在の成就院の参道の高さの場所を通っていたと推定されています。
中世の極楽寺坂切通は、坂の上に位置する極楽寺の実質的な開山である忍性によって、鎌倉時代に切り開かれました。もちろん、極楽寺坂切通という名前も、地名にもなった極楽寺から付けられています。
それまでは、鎌倉と鎌倉よりも西側と行き来するためには、稲村ヶ崎の上を越えるルートが一般的だったようです(稲村ヶ崎に現在の国道134号の切通が開削されたのは、昭和に入ってからです)。
鎌倉時代の末期には、新田義貞が鎌倉攻めをした際に極楽寺坂切通を突破しようとしましたが、守りが堅かったためできず、最終的には稲村ヶ崎の海岸線から突破したというエピソードが残っています。
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緑に覆われた現在の切通
現在の極楽寺坂切通は車道の整備によって深く掘り下げられていますが、とくに成就院側の壁面は緑で覆われているため、どこか、いにしえの切通としての雰囲気を感じさせてくれます。
明治に入ってからは、この極楽寺坂切通に並行するかたちで、江ノ電の極楽洞(極楽寺トンネル)が建設されました。
中世の旅人気分を味わえる成就院の参道
極楽寺坂切通の南側を並行して走る成就院の参道も、舗装された道になっているため、中世の雰囲気とは言えません。しかし、極楽寺側(坂の上側)から成就院の参道を歩いて行くと、頂上付近で急に鎌倉の市街や由比ヶ浜が目に飛び込んでくるため、中世の旅人が苦労して鎌倉に到着したときと似た気分を味わうことができると思います。