巨福呂坂は、鎌倉の雪の下と北鎌倉の山ノ内を結んでいた古道です。「小袋坂」や「巨福呂坂切通し」と表現される場合もあります。「鎌倉七口(鎌倉七切通)」の一つに数えられていて、国の史跡に指定されています。「鎌倉七口」の中で唯一、通り抜けることができない切通です。
旧道となった巨福呂坂がいつ通り抜けできなくなり、利用されなくなったのか正確には分かりませんが、明治期に現在の県道21号(鎌倉街道)となる新道が開削されたため、廃れたものと思われます。
この新道は、何度か大きな改修工事を受けた後、1993年にトンネルのようなアーチ状の落石防護施設を伴う道路になっています。
中世の巨福呂坂は、鎌倉の扇ガ谷と北鎌倉の山ノ内を結ぶ亀ヶ谷坂とともに、鎌倉の市街地と鎌倉の北側を往来する重要な交通路だったと考えられます。
新田義貞の鎌倉攻めでは、新田軍ははじめ、巨福呂坂と仮粧坂、極楽寺坂の三方向から鎌倉を攻略しようとしましたが、いずれの切通からも突破することができなかったため、最終的には稲村ヶ崎の海岸線から鎌倉へ突入しています。
巨福呂坂の名前の由来は、当時のこのあたりの地名であった「巨福呂郷」にちなんでいます。北鎌倉・山ノ内側の入口に位置する建長寺の山号「巨福山」の由来も同じです。
「巨福呂」という名前は、北鎌倉駅を挟んだ反対側の地域で「小袋谷」として残っています。
INDEX
巨福呂坂洞門は現代の切通
新道のトンネルのような落石防護施設は、旧道の切通の名称にちなんで、「巨福呂坂洞門」と名付けられています。巨福呂坂洞門は、切通の現代版と表現しても良いかもしれません。
幹線道路だった時代を物語る青梅聖天社や庚申塔
現在の巨福呂坂は、鎌倉・雪の下側の坂道が残っているだけで、北鎌倉・山ノ内側の坂道は確認することができません。雪の下側の坂道も、終端部分は私有地となっているため、行き止まりの場所まで行くことはできません。
雪の下側の坂道の途中に残る青梅聖天社や庚申塔だけが、幹線道路であった時代の面影を物語っています。