公郷神社は、平作川中流のほとりにある公郷公園に隣接した、公郷町の鎮守です。公郷神社と同じ公郷町2丁目内には横須賀市の衣笠行政センターがあるように、現在の公郷町は衣笠エリアに含まれています。しかし、明治時代中期までは公郷村と言う衣笠村とは別の村があり、その範囲は、現在の三春町やその沖合に浮かぶ猿島までも含まれていました(現在、三春町と猿島の間にある平成町は、その名前のとおり、平成期に埋め立てられてできた土地です)。
この公郷村には、明治後期まで10社以上の神社が鎮座していましたが、国の一村一社の政策によって、村社である春日神社に合祀されました。
公郷神社は、戦後、春日神社に合祀された神社のうち、現在の公郷町に鎮座していた神社を復祀して創建された神社です。
主祭神 | 以下のいずれかまたは両方 伊弉諾尊 素戔嗚尊 ※春日神社へ合祀前の公郷村字宗源寺の神社から推測 |
旧社格等 | ― |
創建 | 不詳(戦後) |
INDEX
「公郷村」と「公郷町」
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、当時の公郷村には、田津・宗源寺・神金・山崎・堀内という地名があったことが分かります。その後、明治時代に行われた周辺の町村との合併や編入、戦後の住居表示の実施等により町名が整理されていった結果、現在の「公郷町」は、概ね、宗源寺と神金に相当する地域にあたります。(田津(田戸)と山崎、堀内は、概ね、米が浜通の東側から安浦町、三春町に相当)
旧公郷村の神金は、もともと、小さな山を越えればすぐ春日神社のある山崎という立地にありました(昭和期に公郷隧道、平成期に歩行者用の山崎トンネルが開通してからは、山越えの必要もなくなりました)。
しかし、もう一方の宗源寺は春日神社まで遠かったことから、この地に公郷神社を創建するきっかけになったと考えられます。
公郷の神社に祀られていた神様たち
1879年(明治12年)から1920年(大正9年)にかけて神奈川県がまとめた「明治12年 神社明細帳(三浦郡)」によると、明治期の公郷村字宗源寺には、以下のような神社が鎮座していました。
- 熊野神社 祭神:伊弉諾尊
- 貴船神社 祭神:海津見命
- 湯山神社 祭神:日本武尊
- 淡島神社 祭神:少彦名尊
- 神明神社 祭神:天照太神宮
- 浅間神社 祭神:木花佐久夜昆売命
このうち、熊野神社以外には「式外里社」という注釈があり、公郷村字宗源寺内の神社では熊野神社が別格の扱いだったことが分かります。また、熊野神社の境内には八坂神社(江戸時代までは牛頭天王社)が祀られていたと言います。
戦後、春日神社からは、熊野神社の伊弉諾尊または八坂神社の素戔嗚尊(あるいはどちらとも)が復祀され、公郷神社として創建されたのでしょう。
なお、かつての熊野神社・八坂神社は、公郷神社の社殿が建立された場所から100mほど北側にありました。
明治後期に春日神社へ合祀された当時は家数も少なかったであろう公郷神社周辺も、戦後に復祀される頃には宅地化が進んでいて、遷座地も限られていたとみられます。
八坂神社の牛頭天王と宗元寺の薬師如来
公郷神社と向かい合うように公郷町北部の丘陵地に建つ曹源寺は、奈良時代の創建と伝えられていて、現在の公郷神社近く、あるいは神社境内も含む大寺院だったと言われています。かつては「宗元寺」、あるいはこのあたりの字名にもなった「宗源寺」と呼ばれていました。熊野神社・八坂神社の境内も、往時の宗元寺の寺域にあったとみられます。しかし「宗元寺」は、室町時代には衰退し、江戸時代初期に「曹源寺」として再建されました。
宗元寺/曹源寺の本尊は、薬師如来像です。
明治維新より前の神仏習合の時代、八坂神社は牛頭天王社と言い、牛頭天王の本来の姿(本地仏)は薬師如来とされていました。
八坂神社も宗元寺も今は姿を変えてしまいましたが、公郷神社と曹源寺が向かい合うように建っているのは、意味があることなのかもしれません。