横須賀・浦郷町の正観寺は、「榎戸薬師」という別名を持つ、浄土宗の寺院です。「榎戸」とはこのあたりの古くからの地名で、中世には鎌倉の外港の一つとして栄えた榎戸湊があった場所です。
古くよりこの地には、榎戸の鎮守として、神仏習合の薬一王神が薬師堂に祀られていました。これが「榎戸薬師」と呼ばれ、親しまれてきたゆえんです。
しかし、明治維新後の神仏分離令を受けて、薬一王神はその別当寺(神社を管理する寺院)であった正観寺に薬師如来として祀られることになりました。
境内の隣接地に鎮座する山中社は、明治維新後、薬一王神に代わり榎戸の鎮守として祀られるようになった神社で、山中権現社を遷したものです。
| 山号 | 医王山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 寺格 | ― |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 1582年(天正10年)頃 |
| 開山 | 称誉源公 中興:面誉含竜 |
| 開基 | ― |
正観寺の薬師如来は、三浦薬師如来霊場の第19番札所になっています。三浦薬師如来霊場は古くより親しまれてきたものですが、正観寺の札所としての歴史は浅いです。三浦薬師如来霊場は、33年に一度、大開帳が行われます。正観寺は、前々回にあたる1984年(昭和59年)の大開帳で番外として追加され、前回の2017年に正式な札所として加えられました。
これは、「薬師如来」ではなく榎戸の鎮守「薬一王神」として祀られてきたという歴史的経緯によるものとみられています。

山号・院号が示す薬師如来が信仰の中心であり続けた正観寺の歴史

1962年(昭和37年)に発行された「浄土宗神奈川教区寺院誌」によれば、安土桃山時代の天正(1573年〜1592年)のころ、鎌倉の光明寺に滞在していた称誉源公が、三浦半島一周の旅に出て、その帰途、走水より海路で榎戸に上陸した際、土地幽静、風光明媚をめでて「これ有縁の地、これ我が往生の地」と、この地に草庵を結んだのが正観寺のはじまりとされています。称誉源公は、平安時代の天台宗の僧・智証大師(円珍)の作という薬師如来像を念持仏として尊崇していたと言い、これが寺の中心的な仏像になったと考えられます。
正観寺は、山号を「医王山」、院号を「薬師院」と言います。「医王山」は薬師如来を本尊とする寺院に多く見られる山号です。三浦半島では逗子・沼間の神武寺や横浜金沢・釜利谷南の東光禅寺が「医王山」という山号を持ち、いずれも、本尊は薬師如来です。
現在の正観寺の本尊は阿弥陀如来ですが、山号や院号からも、寺の由緒からも、創建当初より、薬師如来が信仰の中心となる寺院であったことは明らかです。ところが、江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」では、山号は「醫王山(医王山)」で本尊は「彌陀(阿弥陀如来)」とみえ、明治維新前には山号と本尊のねじれ現象は起きていたことが分かります。
いつしか、あくまで、薬師如来は薬一王神として薬師堂に祀る榎戸の鎮守であり、阿弥陀如来は別当寺単体としての正観寺の本尊という、神仏習合の時代ならではのすみ分けができ、やがて、明治維新の神仏分離を迎え、現在に至ったということなのでしょう。
神武寺との信仰的・地理的なつながり

なお、神武寺の史料によれば、江戸時代中期の享保年間(1716年~1736年)に寺の十二神将を新たに造りなおした際、古い像は正観寺の薬一王神に譲ったという記録が残っています。それが一時的なものだったのか継続的なものだったのかは分かりませんが、正観寺・薬師堂は、神武寺ともつながりがあったようです。
かつて、正観寺のある榎戸付近からは、鷹取山を経由して神武寺に至る尾根道が続いていました。これが、巡礼路や修験道のような意味合いを持つ道として使われていたとしても、不思議ではありません。現在では宅地開発などによって姿を変えている箇所もありますが、正観寺のある浦郷町から、浜見台~がらめきの切通~鷹取山ハイキングコース~神武寺というルートで、その道筋を辿ることができます。
正観寺(榎戸薬師)境内の見どころ
薬師堂
正観寺の薬師堂には、薬師如来が薬一王神として祀られていた時代の名残りとして、「薬一王」と書かれた扁額が掲げられています。(薬一王神時代からある建築ではありません)

「深浦筆子中」と刻まれた石塔
明治前期、正観寺では寺子屋が開かれていました。その後、南浦学舎と呼ばれるようになり、住職の転任によって本浦学舎(後の浦郷学校、現在の浦郷小学校の前身)に統合されました。

六地蔵が刻まれた石塔とお地蔵様

室町期のものとされる五輪塔と宝篋印塔

鐘楼

山門

庚申塔

正観寺(榎戸薬師)周辺の見どころ










