平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した武将・和田義盛は、現在の三浦市初声町和田周辺を所領としていました。和田義盛の父・杉本義宗は鎌倉の杉本城(杉本寺の裏山)を本拠地としていましたが、義盛はその地で「杉本氏」を継ぐのではなく、三浦半島南部の和田の地(和田の里)に入り、「和田氏」を名乗りました。
INDEX
三浦一族の食糧庫だった和田を含む三浦半島南部
和田義盛の父・杉本義宗は平安時代後期の三浦一族の当主・三浦大介義明の長男で、義盛は三浦義明の孫にあたります。三浦義明の時代の三浦一族は、三浦半島各地の要所に義明の兄弟やその家族を配置して、その体制を強固なものにしていました。
三浦半島の付け根に位置する鎌倉の杉本城に配置された杉本義宗は、三浦義明の長男というだけあって、半島への敵の進入を防ぐという重要な役割を担っていたことになります。
和田義盛が配置された三浦半島南部の和田周辺は、現在も昔も穀倉地帯で、義盛は三浦一族を食糧面で支える役割も持っていたことになります。
水軍や水運としての立地もすぐれていた和田城
和田義盛が居館(屋敷)を築いたとされる、現在「和田城跡」の碑が建つ場所は、南西側が開けた台地の淵にあります。
ここから南西に600mほど行くと海岸に出ます。この海岸は現在、和田長浜海岸と呼ばれていて、例年、夏には海水浴場が開設されます。和田城跡から海岸までの間は、三浦YMCAグローバル・エコ・ヴィレッジという、主に臨海学校・林間学校などに利用される宿泊施設になっています。
また、もう少し南に行くと、中世には内陸まで海が深く入り込んでいたと思われる場所、現在の三浦市初声町入江(江戸時代に入江新田として開発された後、近年は造成されて、団地やカインズホーム、ヤオコーなどになっている場所です)、があり、船だまりや水軍の基地には最適な環境がすぐ近くにありました。
和田義盛は高い山がない三浦半島南部でも、最低限の要害の地を選びつつも、武力としての水軍や、三浦一族の所領であった三浦半島各地や全国の戦地へ食料を届けるための水運も見すえて、海のそばを拠点に選んだのかもしれません。
「矢作」や「赤羽根」といった地名が物語る弓の名手・義盛
源頼朝による平家討伐や奥州藤原氏討伐の挙兵で源氏方に味方した三浦一族の中でも、和田義盛はとくに優秀な武功を挙げた一人でした。その功績もあって、鎌倉幕府では幕府の御家人たちを束ねる立場にある侍所別当に就任し、源頼朝が死没した後は鎌倉幕府第2代将軍・源頼家を支える十三人の合議制の一人に選ばれるなど、幕府の要職を歴任しました。
和田義盛は弓の名手であったことでも知られています。そのことを示すように、和田城跡の周辺には「矢作」や「赤羽根」といった地名(字名)が残されていて、「和田」とともに、バス停の名称にもなっています。
また、和田城跡からもほど近い三浦市初声市民センターには、和田義盛の「矢羽」がモチーフの大きなレリーフがあり、義盛が現在も地域の人たちに親しまれていることが分かります。
和田城跡(和田城址)周辺の見どころ
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