和田義盛ゆかりの地は、三浦半島の、とくに西海岸沿いに点在しています。義盛の本拠地であった三浦半島南西部の和田の地はもちろんのこと、鎌倉との往復に利用していた道沿いに多く残っています。三浦一族の誰よりもインパクトの強い足跡を残していると言え、その影響力や財力の大きさもうかがい知ることができます。
INDEX
和田義盛の本拠地・和田の里
和田義盛の本拠地は、三浦半島南西部、現在の三浦市初声町和田にありました。ここには和田の里という地名も残っています。
三浦一族は、所領であった三浦半島各地に一族の武将を配置して、その場所の地名を名乗りました。和田義盛の父(三浦大介義明の長男)は、鎌倉の杉本城(杉本寺周辺)を本拠地としましたので杉本氏(杉本義宗)を名乗りましたが、和田の地を本拠地とした義盛は和田氏を名乗りました。
※和田氏のルーツについては、安房国の和田(現在の千葉県南房総市、かつての朝夷郡和田村)とする説もあります。
和田城址(和田城跡)
和田義盛の居城(居館)がどこにあったのか、詳しい場所は分かっていません。残念ながら、後年建立された石碑などを除いて、これといった遺構は残されていません。
しかし、和田の里の他にも、和田義盛ゆかりの地名は数多く残されています。矢作や赤羽根といった地名は、和田義盛が弓の名手だったことを物語る特徴的なものと言えます。また、唐池という地名は、和田城(和田館)の空池に由来するものと考えられます。
和田周辺は、現在も畑が広がる、三浦半島でも有数の穀倉地帯ですが、和田義盛が生きた中世も、三浦一族やその家臣や家族たちに食料を供給する重要な食糧庫でした。和田城址(和田城跡)の石碑も、そんな畑が広がる地域の一角に建っています。
●住所
三浦市初声町和田
●料金
無料
●駐車場
なし(徒歩10分ほどの場所に、和田長浜海岸の駐車場あり)
●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス「横須賀駅」行き、「横須賀市民病院」行き、「荒崎」行きなどの長井方面行きにて「和田」下車、徒歩約10分
※「ソレイユの丘」行きの直行バス、急行バスは、「和田」バス停には停車しません。
和田長浜海岸
和田の地は相模湾に面していて、水運や水軍の立地としても適していました。
現在は埋め立てによって大きく姿を変えてしまっていますが、和田の南隣に位置する、現在の三浦市初声町入江は、その名前のとおり、かつては内陸まで大きく入り江が入り込んでいて、船だまりや水軍の基地には最適な場所でした。
ここから三浦半島各地や全国の戦地へ食糧の供給であったり、三浦水軍の派兵をしていたと考えられます。
和田城址(和田城跡)からほど近い和田長浜海岸の周辺は現在も自然海岸が残っていて、例年、夏には海水浴場が開設されます。
●住所
横須賀市長井2-12(長浜海岸)
●料金
無料
●駐車場
あり
●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス「横須賀駅」行き、「横須賀市民病院」行き、「荒崎」行きなどの長井方面行きにて「和田」下車、徒歩約20分
※「ソレイユの丘」行きの直行バス、急行バスは、「和田」バス停には停車しません。
または、京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス『ソレイユの丘』行きで終点下車、徒歩約20分
鎌倉幕府侍所別当・和田義盛
1180年(治承4年)、源頼朝の平家討伐の挙兵に呼応した和田義盛ら三浦一族でしたが、頼朝らと合流することができずに、逆に、畠山重忠率いる平家方に三浦一族の本拠地・衣笠城で包囲されてしまいます。
畠山重忠は後に源頼朝に仕え重用されることになりますが、和田義盛も負けず劣らず頼朝からの信頼はあつく、鎌倉幕府で重要なポジションを与えられるようになります。政治的な手腕と言うよりは、武術などの軍事面に秀でていた義盛にとって、鎌倉幕府創設前後はとくにその才能を発揮した時期と言えるでしょう。
怒田城址(怒田城跡)
衣笠城を包囲する畠山重忠率いる平家方の大軍に対して明らかに劣勢となった和田義盛ら三浦一族は、窮地に陥っていました。そこで、和田義盛は、衣笠城を捨てて、三方を山で囲まれて一方を海に面している要塞堅固な怒田城での籠城を主張しました。このエピソードから、怒田城の城主は和田義盛だったという説がありますが、詳しくは分かっていません。
しかし、時の三浦一族の当主・三浦大介義明はこの案を退けます。このときすでに老齢であった三浦大介義明は、無名の怒田城ではなく、三浦一族の本拠地として知られた衣笠城で最期を迎えたかったのです。
三浦大介義明は衣笠城で討ち取られてしまいますが、自らの命と引き換えに、和田義盛や三浦義澄らの一族の脱出は成功します。
●住所
横須賀市吉井1丁目
●料金
無料
●駐車場
なし
●公共交通機関
京急久里浜線「京急久里浜駅」、JR横須賀線「久里浜駅」から徒歩約25分
周辺の見どころ
陸上自衛隊久里浜駐屯地
光念寺
衣笠城を逃れた和田義盛らは、怒田城近くの久里浜から東京湾の海上に逃れましたが、戦による疲労と飢えで限界を迎えていました。
しかし、和田義盛が龍神に祈ったところ、竹で編んだ漁具である「筌(せん)」が流れてきて、それで魚を獲ることによって飢えをしのぐことができたと言います。その後、和田義盛ら三浦一族は無事に房総半島の安房国にたどり着くことができ、同じく舟で逃れてきた源頼朝や北条時政・義時らと合流することができました。
このとき、和田義盛は頼朝に、御家人を束ねる立場である侍所別当(長官)を所望し、勢力を拡大して鎌倉入りを果たした際に、この望みを現実のものとしています。
後日、和田義盛は一族を助けてくれた「筌」が龍に化けて現われる夢を見て、筌龍弁財天として三崎の光念寺に祀ったと伝えられています。
●住所
三浦市三崎1-18-1
●参拝料
無料(志納)
●駐車場
あり
●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より、京急バス「三崎東岡」「城ヶ島」「通り矢」「三崎港」「浜諸磯」行きで『三崎東岡』下車、徒歩約5分
または、京急バス「城ヶ島」「通り矢」「三崎港」「浜諸磯」行きで『三崎港』下車、徒歩約7分
周辺の見どころ
本瑞寺(桜の御所跡)
海南神社
うらりマルシェ
神明白旗神社
源頼朝から侍所別当に任命された和田義盛は、平家討伐や奥州藤原氏討伐の戦いで武功を挙げ、鎌倉幕府創設に大きく貢献しました。その活躍ぶりは、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」や軍記物語「平家物語」などに描かれています。
和田義盛の死後、義盛の本拠地・和田には、和田の村民たちによって、源氏の旗印である白旗の下活躍した義盛を祀る、白旗神社が創建されました。(後に、白旗神社には神明社が合祀されたため、現在は神明白旗神社と呼ばれています)
この和田の地があるエリアは、現在、三浦市初声町(かつては初声村)に属しています。この「初声」という地名は、平家討伐の後、義盛と和田の地の村民を交えた酒宴で披露された戦勝の舞「初声」に由来するとされています。
●住所
三浦市初声町和田1746
●参拝料
無料(志納)
●駐車場
なし
●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス「横須賀駅」行き、「横須賀市民病院」行き、「荒崎」行きなどの長井方面行きにて「和田」下車、徒歩約3分
※「ソレイユの丘」行きの直行バス、急行バスは、「和田」バス停には停車しません。
和田義盛と薬師信仰・阿弥陀信仰
人を殺めることが日常茶飯事だった中世の武士にとって、死者や先祖を供養したり自身を守護するうえで、仏教は欠かせない存在でした。三浦一族も例外ではありませんでしたが、その中でも和田義盛は群を抜いて信仰心があつかったように見えます。
三浦半島に数多くの寺院を建立し、その一堂一堂に現代の価値観においても非常に評価が高い仏像を安置してきました。鎌倉時代を代表する仏師の一人である運慶に製作を依頼した仏像群や、三浦半島に七つの阿弥陀堂を建立したという三浦七阿弥陀堂が知られています。
このような側面を見ても、和田義盛は、信仰心だけでなく、財力やリーダーシップもあったことがうかがえます。
安楽寺跡・天養院
安楽寺は、和田義盛の居館の鬼門に建立された寺院とされていますが、現在は廃寺となっています。
安楽寺の本尊・薬師如来像は、戦で和田義盛の身代わりとなって傷を負い、流血したという伝承が残されている仏像で、義盛の護持仏であったと伝えられています。この薬師如来像は平安中期11世紀ごろの作とされ、現存するものでは、三浦半島で最古、神奈川県下でも最古級の仏像とみられています。
安楽寺の薬師如来像は、安楽寺が廃寺となる際に、近くの天養院に移され、現在も客仏として安置されています。その際、安楽寺にあった和田義盛の銅像は、同じく近くの白旗神社に移されています。
●住所
三浦市初声町和田1669 ※天養院の情報(以下、同様)
●参拝料
無料(志納)
●駐車場
あり
●公共交通機関
京急久里浜線「三崎口駅」より京急バス「横須賀駅」行き、「横須賀市民病院」行き、「荒崎」行きなどの長井方面行きにて「赤羽根」下車、徒歩約3分
※「ソレイユの丘」行きの直行バス、急行バスは、「赤羽根」バス停には停車しません。
浄楽寺
浄楽寺は、横須賀の芦名にある、全国に真作は19体しかないとされる運慶が製作した仏像のうち5体(いずれも、国指定重要文化財)がそろう寺院です。寺の縁起については諸説ありますが、和田義盛が建立した三浦七阿弥陀堂の一つであるとされています。
浄楽寺の運慶仏は、和田義盛と妻の小野氏が願主となって製作されたことが分かっています。運慶はこの3年前、北条時政が願主となって、伊豆の願成就院の仏像を製作しています。
伊豆国の小豪族でしかなかった北条氏は、源頼朝が鎌倉殿として武家の頂点に立つと、頼朝との姻戚関係を足掛かりに勢力を拡大していきました。和田義盛の運慶仏は、この北条氏に対抗するものであったという見方もあります。
●住所
横須賀市芦名2-30-5
●参拝料
無料(志納)※運慶仏の拝観は、拝観志納金500円(御開帳日以外は要予約)
●駐車場
あり
●公共交通機関
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅(東口)」または京急逗子線「逗子・葉山駅(南口)」より、京急バス「長井」行き、「横須賀市民病院」行き、「大楠芦名口」行き、「佐島マリーナ入口」行きなどの長井・佐島方面行きにて、『浄楽寺』下車
無量寺
浄楽寺からもほど近い、横須賀の長坂にある無量寺も和田義盛が創建した寺院です。浄楽寺がある芦名も無量寺がある長坂も、鎌倉と和田義盛の本拠地・和田の地を陸路で往復する際の途中にあります。これは現在の国道134号沿いにあたりますが、義盛もこの道をよく行き来し、これらの寺院にも頻繁に参拝していたのでしょう。
無量寺にも創建当時は運慶が製作した阿弥陀如来像が安置されていましたが、江戸時代の火災によって現存していません。
無量寺の運慶仏の存在は、現在の本尊・阿弥陀如来像の大修理の際に胎内から見つかった銘札によって裏付けられたものです。また、同時に、この銘札によって、三浦七阿弥陀堂の存在も裏付けられることになりました。無量寺はその第3番だったと言います。
●住所
横須賀市長坂4-21-18
●参拝料
無料(志納)
●駐車場
あり
●公共交通機関
逗子方面からの場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅(東口)」または京急逗子線「逗子・葉山駅(南口)」より、京急バス「長井」行き、「横須賀市民病院」行き、「佐島マリーナ入口」行きなどの長井・佐島方面行きにて『佐島入口』下車、徒歩約11分
横須賀方面からの場合
JR横須賀線「横須賀駅」、京急線「横須賀中央駅」より、京急バス「湘南佐島なぎさの丘」行きで『佐島入口』下車、徒歩約11分
来福寺
和田義盛の菩提寺である来福寺は、和田の地に隣接する、三浦の上宮田にあります。創建当初は鎌倉の名越にありましたが、義盛の死後、和田の地に移り、さらに江戸時代に現在地に移っています。
来福寺の本堂や山門は、鎌倉以南の三浦半島ではなかなか見られない格式高い堂々とした造りで、本堂は鎌倉以南の三浦半島では最大級のお堂でしょう。
来福寺には、和田義盛の木像や、義盛が戦の際に見つけていて矢を除けることができたという矢除けの鏡、巴御前が所持していたという品などの、義盛ゆかりの品々が寺宝として伝わっています。
●住所
三浦市南下浦町上宮田1859
●参拝料
無料(志納)
●駐車場
あり
●公共交通機関
徒歩の場合
京急久里浜線「三浦海岸駅」より徒歩約15分
バス利用の場合
京急久里浜線「三浦海岸駅」より京急バス「横須賀市民病院」行き、「衣笠十字路」行きにて「池代」下車、徒歩約5分