逗子ゆかりの文豪として知られている徳冨蘆花(1868年12月8日 – 1927年9月18日)と国木田独歩(1871年8月30日 – 1908年6月23日)は、ともに、田越川に架かる富士見橋近くにあった貸部屋「柳屋」に滞在していたという共通点があります。
二人が同時期に柳屋で生活していたことはありませんでしたが、1896年(明治29年)正月、独歩が新婚生活を送っていた部屋のすぐ側に、蘆花も両親らと避寒のために訪れています。このとき、独歩は蘆花に、逗子から見る富士山の朝景色の刹那的な美しさについて語ったと言います。
国木田独歩夫妻が1896年(明治29年)3月に柳屋を去ると、今度は、徳冨蘆花夫妻が入れ替わるようにして、1897年(明治30年)正月に引っ越してきます。
蘆花は、柳屋で暮らすようになりしばらくして、独歩が語った逗子から見る富士山の話を思い出すように、早朝、富士の曙を眺めるようになったと、自伝的小説「富士」(徳冨健次郎(蘆花の本名。徳富健次郎)と妻・あい(愛子)との共著)に書いています。
独歩もまた、自身の代表作となる小説「武蔵野」で、逗子から見る富士山を印象的に登場させています。
徳冨蘆花と国木田独歩は、蘆花の兄で、近代日本を代表するジャーナリストである徳富蘇峰を通じて、以前からの知り合いでした。そこまで強い結びつきがあったわけではないようですが、独歩の死の直前には、病床の独歩に宛てて、蘆花より書簡形式の随筆「国木田哲夫兄に与へて僕の近状を報ずる書」が書かれています(国木田哲夫は独歩の本名)。
逗子の「柳屋」は、農家が自分の家を部屋単位で貸し出すようになったのがはじまりです。1889年(明治22年)に横須賀線の逗子駅が開業すると、避暑や避寒に訪れる人が増えるようになっていきました。旅館ではないため、家財道具一式は自分で持ち込み、食事も台所で自炊するという様子が、徳冨蘆花の自伝的小説「富士」に描かれています。
柳屋は、昭和前期まで営業していましたが、火災により焼失したため、現存していません。柳屋の跡地には、ここに徳冨蘆花と国井田独歩が暮らしたことを偲んで、「蘆花・独歩ゆかりの地」の碑が建てられています。
また、平成まで、柳屋の屋号を受け継いだ「柳屋旅館」が、逗子と葉山の境近くで営業していましたが、現在はこちらも廃業しています。
INDEX
柳屋で短い新婚生活を送った 国木田独歩
国木田独歩は、最初の結婚での新婚生活を柳屋で送りました。けれども、この結婚は長続きせず、およそ4ヶ月という短い期間で終わりを迎えることになりました。結婚生活の大部分は逗子・柳屋でのことで、きっと独歩にとって柳屋は、人生の喜びと苦労が凝縮された場所になったことでしょう。
結婚の直前まで、国木田独歩は、妻になる信子の両親から、一緒になることを反対されていました。しかし、事実上、勘当させられるかたちで、成就することになります。このとき、信子の両親は、独歩と信子に対して、1、2年は東京府から離れることなどが書かれた、3条からなる依頼書を、徳富蘇峰を通して渡しています。
これを受けて、独歩と信子は、蘇峰による媒酌のもと結婚式を挙げました。また、その直後に、蘇峰に相談したうえで、二人は逗子の柳屋で生活することになります。蘇峰とその両親は、東京と逗子で二拠点生活のような暮らしをしていて、彼らにとって柳屋は逗子での定宿のような存在になっていました。このような縁から、蘇峰が独歩らに逗子行きを勧めたようです。
国木田独歩は、この逗子での生活に際して、自身の青年期の日記である「欺かざるの記」にて、“逗子に幽居す” と表現しています。「欺かざるの記」では、この結婚のいきさつや、逗子での暮らしぶりについて、細かく記しています。
1896年(明治29年)3月、国木田独歩夫妻は逗子を離れ、東京に戻ります。逗子を去ることになった理由は、少なくとも表向きには、独歩の父の病気のためと、日記に記しています。それから1ヶ月も経たないうちに信子は独歩のもとから失踪し、しばらくして離婚が成立します。
信子の失踪の理由は、信子の従姉妹による手記などから、独歩の独善的な性格や生活の貧しさからとされています。
柳屋で「不如帰」や「自然と人生」などを執筆した 徳冨蘆花
国木田独歩の結婚とその破局については、徳冨蘆花の自伝的小説「富士」でも描かれています。「小説富士」では、登場人物は実名で登場しませんが、その他の地名や店舗等のほとんどは実際の名称が使われています。
「小説富士」のなかでの国木田独歩は「鴨志田」、その妻・信子は「しん子」と言う名前が与えられています。蘆花(徳富健次郎)自身は「肥後熊次」と名乗り、ペンネームはそのまま「蘆花」としています。泉鏡花、紅葉、露伴といった、ストーリーに直接関係のない作家などは、実名が使われています。
ただ、柳屋については、例外的に、「あらめ屋(荒布屋)」という別の名前が付けられています。
肥後熊次(=徳冨蘆花)が逗子に引っ越してきた翌朝からはじまる「小説富士」第二巻の第一章は「あらめ屋」と名付けられていて、その冒頭では、正月を少し過ぎたこのあたりの様子を、次のように描いています。
冬知らずの筈な逗子に、亦早々案外な大雪ではある。人通りも稀な前の三崎往還から、川向ふの養神亭かけて眞白な中を、唯一條滿潮時の田越川がドス黑く搖らいで居る。
『蘆花全集 第十七巻』収録の「富士」第二巻・第一章「あらめ屋」より
(中略)
テン、テテン、テン、トン – 三味が鳴り出した。川向ふの養神亭である。此雪にも遊びに來て居る客もあるのか。やがて何やら歌ひ出した。
「養神亭」とは、柳屋とは富士見橋を渡った田越川の向こう岸(現在の渚マリーナあたり)にあった旅館で、こちらは実名で登場しています。
この当時は渚橋はまだなく、富士見橋がもっとも田越川河口に近い橋でした。この頃は富士見橋周辺が、ちょうど今の渚橋周辺のような、海岸近くの交通や賑わいの結節点だったのでしょう。

徳冨蘆花は、柳屋に滞在していた間に、処女作「青山白雲」、大ベストセラー小説「不如帰」、自然をテーマにした随筆「自然と人生」などを書いたことも、「小説富士」から分かります。執筆するにあたっての背景や、出版後の反響、筆者自身による感想などが分かり、蘆花ファン、文学ファンには非常に興味深いものになっています。
「小説富士」では、作品のタイトルは実名で登場します。国木田独歩の「武蔵野」も、鴨志田君の「武蔵野」として描かれています。
第一級の文化的史料でもある 蘆花と独歩の逗子滞在記
国木田独歩の日記「欺かざるの記」や徳冨蘆花の自伝的小説「富士」は、明治中期の逗子の様子を知るうえでの第一級の文化的史料でもあります。
とくに、蘆花は、1897年(明治30年)からおよそ4年間という、けっして短くない期間連続で滞在していたこともあり、横須賀線開通によって移り変わっていく逗子のまちの様子を知ることができます。
「小説富士」では、この間に、逗子やお隣りの葉山には次々と別荘が建っていき、夏には東京や横須賀などから海水浴客が押し寄せる様子などが描かれ、人混みが苦手な肥後熊次(=徳冨蘆花)は徐々に居心地が悪くなっていきます。
ついに、「小説富士」第二巻の最終章となる第二十二章「都へ」では、次のように逗子を出ていく決意をしています。
海邊生活の四年で、體は十分に鹽をした。經濟の基礎も兎に角据わつた。兄の所謂「進水式」も済んだ。逗子ももう澤山である。去年あたりから要砦令で、逗子界隈は其筋の許可がなければうつかり寫生も出來ぬ。葉山の方で、濱の麥畑の家を寫生して居たら、通りかゝりの百姓ともつかぬ男が、「イリヤマズ」の何とかへ見せてやるから其畫をくれろ、と云ひ募り、此は畫である、圖ではない、と何と言ふても聽かなかつた。別莊は續々出來る。濱は狹くなる。もう逗子も澤山である。
『蘆花全集 第十七巻』収録の「富士」第二巻・第二十二章「都へ」より
「イリヤマズ(不入斗)」とは、横須賀軍港からほど近い場所にあった地名で、横須賀重砲兵連隊などの旧日本陸軍の施設がありました(不入斗町という地名は現存)。
徳冨蘆花は写生を趣味としていて、逗子周辺でも旅先でも、頻繁に絵を画いていたようです。しかし、三浦半島の要塞化によって、それも容易ではなくなってきた様子がよく分かります。蘆花が逗子を後にしたおよそ3年後には、日露戦争が開戦します。

蘆花・独歩ゆかりの地碑(柳屋跡)周辺の見どころ




