下宮田若宮神社は、京急久里浜線の終点「三崎口駅」から、横須賀・葉山方面に続く長い下り坂をくだった先に鎮座しています。
神社があるような古い土地は山がちな場所が多い三浦半島では、めずらしく周囲を平地に囲まれています。
若宮神社の海側には、入江(現在の三浦市初声町入江。古くは入江新田)という地名が残っています。若宮神社が鎮座しているのは「下宮田」(三浦市初声町下宮田)ですが、境内の敷地のすぐ手前はもう「入江」です。
現在では海岸線は遠のいていますが、かつては、若宮神社のすぐ近くまで深く海が入り込んでいて、水辺に創建された神社だったことが分かります。
下宮田若宮神社の由緒は、戦国時代の1505年(永正2年)に起きた、三浦道寸(義同)率いる相模三浦氏と北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏との争いによる戦火で史料等が失われたため、それ以前の記録は残っていません。
主祭神 | 大鷦鷯尊 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 不詳 ※戦国時代(永正年間)以前 |
祭礼 | 2月19日 祈年祭 9月19日に近い土日 例祭 11月23日 新嘗祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
境内に隣接する初声小学校との間には、若宮相撲場の立派な土俵や下宮田児童公園の遊具があり、他の神社では見られない下宮田若宮神社ならではの光景です。
INDEX
力自慢の多かった和田義盛一族の本拠地近くにある三浦相撲の中心地
下宮田若宮神社のあたりは、古くから神社の例祭で相撲が奉納されるような、相撲のさかんな地域でした。現在でも、毎年秋に執り行われる若宮神社の例祭では、境内に隣接する若宮相撲場で「若宮初声っ子相撲大会」が奉納されています。また、若宮相撲場は「わんぱく相撲全国大会」の予選も兼ねる「わんぱく相撲三浦場所」の会場にもなっています。
江戸時代後期に成立した地誌「三浦古尋録」などによると、江戸時代には三浦半島全域で相撲がさかんに行われていたことが分かります。
若宮神社のお隣りの和田(三浦市初声町和田)は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将・和田義盛の本拠地だった場所です。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、和田義盛の子の朝比奈義秀と和田常盛が、逗子・小坪で催された笠懸の席で、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家の名馬をかけて相撲の勝負をしたというエピソードが残されています。
戦国時代の三浦道寸と北条早雲の争いによる戦火で史料が残されていないため、そのころの若宮神社の様子を知ることはできませんが、三浦の相撲の歴史は、力自慢の武将が多かった、和田義盛の一族のいた時代から続くものだったことがうかがい知れます。
三浦道寸と北条早雲の合戦の舞台に一つになった若宮神社
三浦道寸と北条早雲の合戦による焼失のあと、若宮神社に社殿が再建されたのは、江戸時代前期の1673年(寛文13年)のことでした。
北条早雲に追われた三浦道寸は、住吉城、大崩、長坂、そして、ここ下宮田若宮神社付近など、三浦半島の相模湾側を南下しながら抵抗しますが、最後は油壺の新井城での3年間におよぶ籠城戦の末、一族は滅亡してしまいます。
もし、三浦半島にゆかりの深い三浦道寸が勝利していたなら若宮神社もすぐに再建されていたかもしれませんが、外部から訪れた後北条氏、徳川将軍家による支配では、なかなかそれもままならなかったのかもしれません。
再建以降も、若宮神社は宮田の総鎮守として(宮田が下宮田と上宮田に分かれてからは、下宮田の鎮守として)、地域の人たちの崇敬をあつめてきました。1908年(明治41年)には、近隣にあった神明社、稲荷神社、日枝神社が若宮神社に合祀されています。
なお、「宮田」は現在の三浦海岸駅(上宮田)から三崎口駅(下宮田)にかけての地域で、ちょうど、小松ヶ池公園あたりを境に、上宮田と下宮田に分かれています。
若宮神社(下宮田)境内の見どころ
社殿
現在の社殿は、1989年に造営されたものです。