長柄桜山古墳群は、逗子市と葉山町にまたがる丘陵地にある前方後円墳で、現存する神奈川県内の古墳としては最大級のものです。
葉桜住宅の西端近くに第1号墳、蘆花記念公園の裏山にあたる場所に第2号墳の、2基の前方後円墳が確認されています。第1号墳と第2号墳の間の距離は500mほどで、尾根道で結ばれています。
2基とも古墳時代前期(4世紀)のものと推定されていて、多くの埴輪や土器などの埋葬品が発見されています。
長柄桜山古墳群の存在が知られるようになったのは近年になってからのことで、1999年に地元の考古学愛好家によって第1号墳が発見され、同じ年に第2号墳の存在も確認されました。
それまで三浦半島で見つかっていた前方後円墳は、大塚山古墳群や蓼原古墳など、久里浜周辺(古久里浜湾)に集中していました。三浦半島の付け根部分は前方後円墳の空白地帯とされていましたが、この地域にも有力な豪族が存在する重要な拠点があったことが確認されたことになります。
長柄桜山古墳群は、この地域の文化遺産という意味はもとより、当時の中央政権(ヤマト政権)と関東地方とのかかわりを知るうえでも貴重な存在であることから、2002年に国の史跡に指定されました。
INDEX
海上交通の拠点を治めていた首長の墓か?
久里浜周辺の古墳が東京湾に注ぐ三浦半島最大の河川である平作川流域の河口部に点在しているのに対して、長柄桜山古墳群は相模湾に注ぐ田越川流域の河口部の南岸に位置しています。
また、長柄桜山古墳群が発見されるまでは三浦半島の相模湾側で確認されていた唯一の前方後円墳だった経塚古墳(横須賀市長井のソレイユの丘駐車場近く)は、三浦半島の相模湾側で最大の入り江である小田和湾の南岸にあります。
いずれも三浦半島では大きな湾や河川の河口部にあることから、共通点として、そこには、河川や大きな入り江と海を利用した海上交通の拠点があったことが推測されます。
一方、その存在が認知されるようになった時期に差が出た理由でもありますが、久里浜周辺の古墳が開発によってすでにその多くが失われてしまったり原型をとどめていないのに対して、開発の手を免れてきた長柄桜山古墳群は良好な形でほぼ原型をとどめていると考えられています。
そのため、長柄桜山古墳群では、今後の発掘調査によって当時の三浦半島地域がどのような役割を担っていたのか、より明確になっていくことが期待されます。
また、長柄桜山古墳群と同じ田越川流域の南岸には持田遺跡が、対岸の北側には池子遺跡群が存在することが知られていて、ともに長柄桜山古墳群に前方後円墳が造られたころの生活の痕跡が見つかっています。
池子の森自然公園内にある池子遺跡群資料館では、池子遺跡群から出土したものに加えて、長柄桜山古墳群から出土した埴輪も展示されています。


神奈川県内で最大の大きさをほこる 第1号墳

葉桜住宅の西端近くの第1号墳は全長が91.3mあり、現存する神奈川県内の最大の古墳です。
近年まで住宅地の近くのただの尾根としか認知されていなかった場所であるため、逗子市では、この第1号墳から園路の整備などを進めています。
第1号墳の周辺からは、眼下に田越川流域の逗子市街や相模湾、遠くに富士山や丹沢の山々などを一望できます。
反対に、平野部や海上からもこの前方後円墳を望めていた可能性も高く、そのような場所に築くことで、権威や威厳、あるいは中央政権(ヤマト政権)との関係性を示していたのではないでしょうか。

表面が葺石で装飾されていた 第2号墳

第2号墳は全長88mあり、第1号墳との違いとして、第2号墳には古墳の表面に葺石と呼ばれる装飾が施されていたことが発掘調査の結果分かっています。
しかし、どちらが先に築かれたかなどの詳細までは分かっていません。
第2号墳は蘆花記念公園に近く、相模湾に近い尾根の突端にあります。逗子海岸、渚橋をすぐ眼下に見下ろせるような場所にあります。
ちょうど、古墳の前方部が海に向いていて、その先には江の島や富士山があります。
現在は古墳自体にも、周囲にも、木々がうっそうと茂っているため、そこに前方後円墳があることなど言われなければ気づくことができませんが、第1号墳と同じように、第2号墳も平野部や海上からよく見えるような場所に築かれています。
長柄桜山古墳群には、第1号墳と第2号墳を結ぶ尾根道沿いを含めて、トイレがありません。
いちばん近いトイレは、第2号墳のふもとにある蘆花記念公園になります。



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2021年3月現在、第1号墳は墳丘保護および整備工事のため、古墳の上には登れません。周囲までは行くことができます。