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うぐいす坂 | 浜口英幹の花屋敷があった上町と大勝利山を結ぶ旧浦賀道

うぐいす坂(撮影日:2025.10.30) 横須賀
うぐいす坂(撮影日:2025.10.30)

うぐいす坂は、横須賀・上町から大勝利山(小屋の台)へ登る入口にある坂道です。かつての浦賀道東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)の一部で、大勝利山からは、京急線の汐入駅方面や諏訪大神社徳寿院・豊川稲荷横須賀別院良長院などに続く道筋が続いています。

うぐいす坂」という名前の由来は、この坂が樹木に覆われていたことに加え、坂の中ほどに「花屋敷」と呼ばれる花に囲まれた家が建っていたため、うぐいすの鳴き声がよく聞こえてきたことから、このように名付けられたと言われています。
現在のうぐいす坂は、周辺の宅地化が進み樹木はそれほど多くありませんが、坂上にあたる大勝利山の頂上付近では、その名残りが見られます。

1877年(明治10年)に下町地区(現在の横須賀中央駅周辺地域の総称。当時の横須賀町)と上町地区(当時は深田村中里村)を結ぶ平坂が開削されると、旧浦賀道のルート(横須賀~浦賀)はうぐいす坂経由から平坂経由が主流になっていきます。
主要路から外れたうぐいす坂周辺は、商店が建ち並ぶような都市化の道は歩まず、静かな住宅地として開けていくことになります。このため、今でもうぐいすの鳴き声が聞こえてきそうな雰囲気を留めています。

うぐいす坂・「うらが道(浦賀道)」の案内板(撮影日:2025.10.30)
うぐいす坂・「うらが道(浦賀道)」の案内板(撮影日:2025.10.30)
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「公園」誕生以前に「私園」がいくつかあった うぐいす坂周辺

うぐいす坂・坂の中ほどより見下ろす(撮影日:2025.10.30)
うぐいす坂・坂の中ほどより見下ろす(撮影日:2025.10.30)

1957年(昭和32年)に発行された「横須賀市史」には、

眺望の勝地ではなく自然に対して人工を加えたもので古いものは花屋敷が明治一五年前後からあつた。中里の万香園・深田の公池園の二カ所もあつた。しかし現在ではその所在すらも明瞭でない。恐らくは私園であつたものであろう。なお私園では新墓のつつじ園・神金の至喜亭・浦賀の宮与遊園・同じく浦賀荒巻の養生園・日向の共楽園等が有名であつた。

とあり、まだ「公園」がなかった時代、「私園」が人々の憩いの場だったことが分かります(横須賀市内の古い公園は、西浦賀愛宕山公園が明治26年、衣笠山公園が明治40年、緑が丘諏訪公園が明治45年に開園していて、明治前期まで「公園」はありませんでした)。

ここに出てくる「中里の万香園」が「うぐいす坂の花屋敷」のことを指しているのかは分かりません。「中里」はうぐいす坂あたりの古い地名です(現在は横須賀市上町)。「深田の公池園」の「深田」(現在の横須賀市深田台上町米が浜通の一部)もうぐいす坂からほど近い場所で、このあたりには「花屋敷」と呼ばれた邸宅が多くあったのかもしれません。

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咸臨丸で太平洋を横断し 横須賀造船所に勤めた 浜口英幹の「花屋敷」

うぐいす坂・坂下より見上げる(撮影日:2020.12.22)
うぐいす坂・坂下より見上げる(撮影日:2020.12.22)

現在の上町一帯には、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所横須賀海軍工廠)ができた明治期以降、旧日本軍の士官や造船所・海軍工廠の工員などが多く住むようになりました。

うぐいす坂の花屋敷」に住んでいた浜口英幹はまぐち ひでもと浜口興右衛門はまぐち おきえもん)もそんな一人です。浜口は、幕末に咸臨丸太平洋横断を果たした一人で、明治維新後は横須賀造船所に海軍技官として務めました。
1938年(昭和13年)に出版された「幕末軍艦咸臨丸」という本には、浜口太平洋横断に「咸臨丸」の運用方として乗り込んだ時の様子が細かく書かれています。

幕末軍艦咸臨丸」には浜口英幹(浜口興右衛門)の経歴も書かれています。これによると、1855年(安政2年)、浦賀奉行所の同心(与力配下の下級役人)だった浜口興右衛門は、同じ浦賀奉行所の与力・中島三郎助佐々倉桐太郎らとともに、幕府が海軍士官養成のために開いた長崎海軍伝習(後に、長崎製鉄所長崎造船所へと発展)の第1期生に選抜され、1857年(安政4年)には軍艦操練教授方を拝命しています。
1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団を乗せたアメリカ軍艦ポーハタン号とともに、咸臨丸で太平洋を横断しました。このとき、浜口は運用方として咸臨丸に乗船していますが、出航前には、中島三郎助春山弁蔵山本金次郎ら、長崎海軍伝習の同期とともに浦賀での咸臨丸の修理も担当しています。

1863年(文久3年)からその翌年にかけての、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂による海路を使ったはじめての上洛(上洛自体は二度目)の際には、技の優れた者の一人として、浜口は随伴艦・蟠竜丸の艦長に抜擢されています。

明治に入ると、浜口興右衛門は名前を浜口英幹と改め、横須賀造船所に勤務するようになります。その後、海軍技官として少匠司などを歴任し、1887年(明治20年)には海軍少技監主幹(従六位)を拝命しています。
浜口は、海軍技官のかたわら、俳句の宗匠(師匠)としても有名だったようです。東京の俳人らから、海軍を辞めて俳句に専念することを切に望まれた際には、「自分は宗匠より少匠司が適当である」と答えたと言います。

うぐいす坂の花屋敷」からもほど近い中里神社の拝殿の軒下には、1922年(大正11年)に横須賀市中里好風会によって奉納された「俳額」(俳句が書かれた額)が掲げられています。
このあたりには俳句をたしなむ者が多かったようで、季節を感じられる花屋敷は、創作意欲をかきたてられる場所の一つでもあったことでしょう。

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うぐいす坂周辺の見どころ

うぐいす坂下方面

中里神社
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緒明山公園(読書公園)
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横須賀市自然・人文博物館
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うぐいす坂上方面

DATA

住所 横須賀市上町1丁目、汐入町3丁目
アクセス
行き方

●横須賀中央駅から
京急線「横須賀中央駅(西口)」より、平坂経由で、徒歩約12分
または、京急線「横須賀中央駅(西口)」より、豊川稲荷・大勝利山経由で、徒歩約16分(道が分かりにくいため、土地勘のない方にはおすすめしません)

●汐入駅から
京急線「汐入駅」より、汐入小学校裏・旧浦賀道経由で、徒歩約18分

駐車場 なし(近隣にコインパーキングあり)
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