横須賀・浦郷町の山中社は、「榎戸薬師」という別名を持つ正観寺境内の隣接地に鎮座する、深浦湾に面した榎戸地区の鎮守です。
明治維新まで、この地には、榎戸の鎮守として薬一王神が祀られていて、正観寺が別当寺となり管理していました。「薬一王神」とはあまり聞きなれない神ですが、神仏習合としての信仰でした。逗子・沼間の神武寺の史料によれば、江戸時代中期の享保年間(1716年~1736年)に寺の十二神将を新たに造りなおした際、古い像は正観寺の薬一王神に譲ったという記録が残っており、遅くともそのころにはこの地に薬一王神が祀られていたことが分かります。
明治維新後の神仏分離令を受けて、薬一王神は正観寺の薬師堂として祀られることとなり、浦郷村の山中に鎮座していた山中権現社を遷宮して、新たに榎戸の鎮守として祀ったのが、現在の山中社です。
| 主祭神 | 大山祇命 |
| 旧社格等 | ― |
| 創建 | 1800年(寛政12年) |
| 祭礼 | 2月16日に近い日曜日 祈年祭【春祭】 7月16日に近い日曜日 夏季大祭 10月16日に近い日曜日 秋季大祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
山中社の御祭神・大山祇命は、一般的に「山の神」とされています。この近隣では横浜市金沢区の瀬戸神社、東日本では静岡県の三嶋大社の御祭神として知られています。全国的には大山祇神社に祀られていることで有名で、その大山祇神社によれば、大山祇命は「山の神」であると同時に、「大海原の神」、「渡航の神」であるとされています。山中社を含め、これらの神社はすべて海の近くに鎮座しています。
山中社の御祭神が大山祇命となった経緯は不明ですが、中世には鎌倉の外港として栄えた榎戸湊に鎮座する神社にふさわしい神様と言えます。
しかし、実際のところは、明治維新後の神仏分離の際に、大山祇命の本地仏(神の本来の姿とされた仏)は薬師如来であるという考え方に基づき、山中社には大山祇命が祀られるようになった可能性が高そうです(大山祇神社も三嶋大社も、明治維新前まで本地仏は薬師如来とされていました)。

山中社の源流の一つである山中権現社

江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によれば、山中権現社は旧浦ノ郷村の法福寺によって管理されていた神社と記録されています。法福寺は現在の追浜本町1丁目(旧本浦地区。京急線追浜駅近く、雷神社裏手)にある日蓮宗の寺院です。正観寺は浄土宗の寺院で、2つの寺院は2km近く離れているため、明治維新まで山中権現社と正観寺は直接関係はなかったとみられます。
明治維新以降、山中権現社が榎戸の鎮守となった理由として考えられそうなのは、山中権現社がもともと榎戸地区またはその近くに鎮座していたか、「新編相模国風土記稿」の記載に誤りがあったという可能性が考えられそうです。
「新編相模国風土記稿」には、法福寺の項の山中権現社の補足として “別に除地を附す” とあることから、法福寺境内からは離れた場所に鎮座していたことが考えられます(鎮座地は、「山中」という地名の場所が分かればはっきりとしますが、少なくとも昭和前期の字名には存在しないため、詳細は不明)。また、「新編相模国風土記稿」は、現代の地誌と比べると誤りも少なくなく、同じ浦ノ郷村の寺院である法福寺と正観寺を間違えて記載されたという可能性も否定できません。
その他の山中権現社の由緒も不明ですが、現在の山中社の御祭神である大山祇命はこの神社に祀られていたとも考えられそうです。また、薬一王神が神武寺から十二神将を譲り受けた年代が享保年間(1716年~1736年)であるということから、山中社の創建年とされる1800年(寛政12年)は、薬一王神のものではなく、山中権現社のものである可能性が高そうです。

山中社境内の見どころ
この地のもともとの鎮守は正観寺の薬師堂に遷り、現在の山中社は他の場所から遷宮されたものであるという経緯から、山中社は正観寺の境内社というような場所に、ところ狭しと鎮座しています。
社殿
山中社の社殿は、1886年(明治19年)に再建され、1923年(大正12年)に発生した関東大震災で全壊しました。その後、1926年(大正15年)に改築されましたが、それも1968年(昭和43年)の不慮の災害により焼失してしまいました。
現在の社殿は、1970年(昭和45年)に再建されたものです。

稲荷社(境内社)

奉納砲弾
山中社の目の前の深浦湾は広義の横須賀港の一部であり、第二次世界大戦まで近隣には海軍航空技術廠(終戦時は第一海軍技術廠)をはじめとした旧日本海軍の施設が多くありました。そのため、軍人からの崇奉も少なくなかったとみられます。

山中社周辺の見どころ







