本瑞寺は、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)・源頼朝が三崎に設けた三御所の一つ「桜の御所」跡に建つ寺院です。「桜の御所」の名は、この地に多数の桜の木を植えて、宴を催したことに由来します。
戦国時代には、三浦半島を治めていた相模三浦氏の三崎城がこのあたりにあり、本瑞寺のまわりにも土塁跡と見られる遺構が残っています。
新井城の戦いで相模三浦氏が後北条氏に敗れて一族が滅亡すると、このあたりは後北条氏の所領となりました。
現在残る三崎城の遺構は、後北条氏が改修した後のものです。
本瑞寺は、その相模三浦氏最後の当主・三浦義意が開いた相模三浦氏の菩提寺だった寺院です。
本堂には、室町時代の「康永三年(1344年)」の銘が入った梵鐘(神奈川県指定重要文化財)が保存されていることから、本瑞寺には前身の寺があったか、別の寺院から継承されたものと考えられます。
山号 | 海光山 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 地蔵菩薩 |
創建 | 不詳 |
開山 | 文廣(中興開山) |
開基 | 三浦義意 |
三崎三御所は、源頼朝をもてなすための別荘として設けられました。「桜の御所」以外の二つは、現在の大椿寺に「椿の御所」が、現在の見桃寺に「桃の御所」が設けられていました。
三崎三御所は、「三崎山荘」と呼ばれることがある他、それぞれに花の名が付いていることから「花の三御所」などと表現されることもあります。
源頼朝は三崎を好み、何度も来遊しました。その際、この地を治めていた三浦氏の当主・三浦義澄やその一族が、飲食を振舞ったり、武芸を披露したりしたと伝わります。
INDEX
明治~昭和前半の時代の先駆者たちの墓
本端寺には、明治から大正初期に活躍した東京芸術大学の前身・東京美術学校の教授で美術批評家の岩村透、明治から昭和初期に活躍した彫刻家の北村四海、昭和前半に活躍した俳人の松本たかし、といった著名人が眠っています。
いずれも、時代の先端を歩いていた人たちで、本端寺は、そのような人たちを引き寄せるような特別な場所なのでしょう。
門前からは城ヶ島大橋や城ヶ島方面を一望
本瑞寺は標高25mほどの、海に近い高台にあります。寺の前からは、城ヶ島大橋や城ヶ島方面を一望できます。このような風光明媚な環境も、人々を引き寄せる魅力の一つだったのかもしれません。
本瑞寺は、かつてはこの高台の下の、より海に近い入舩にありましたが、江戸時代の1719年(享保4年)に現在の場所に移りました。
山門は、この地に移った享保年間、または、1821年(文政4年)建立と伝わる、立派な四脚門です。
桜の御所以外の源頼朝の三崎の三御所
源頼朝は、三浦半島では、三崎以外に葉山の森戸大明神(森戸神社)があるあたりにも別荘を設けました。
本瑞寺(桜の御所跡)周辺の見どころ
本瑞寺のすぐ隣りにある光念寺は、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将・和田義盛が開いた寺院です。