三崎城は、中世から近世のはじまりにかけて、三浦半島最南端の三崎にあった、海に面した山城です。城下の北条湾から切り立った崖の上にあって、天然の要害の地にありました。
城主は、この地を治めていた勢力によって変わり、主に、三浦氏(相模三浦氏)→後北条氏が務め、三浦半島への海からの攻撃に備えていました。その土地柄、水軍の拠点として色合いが濃かったものと考えられます。
現在見られる三崎城の遺構は、後北条氏が城主となった時代に、敵対関係にあった房総半島の里見氏との戦いに備えるために改修された後のものです。
この頃の三崎城の城主としては、北条氏規の名が知られています。氏規は、後北条氏第3代当主・氏康の四男で、駿府(現在の静岡県静岡市)の今川義元に人質として預けられていた時代に、同じく義元の人質だった徳川家康と面識があったとみられています。
小田原征伐によって後北条氏が豊臣秀吉に敗れると、相模三浦氏から後北条氏に引き継がれた三崎の水軍は、今度は、後北条氏と入れ替わるように関東に移ってきた徳川家康に引継がれていきました。海上での戦いや船の整備など、陸戦以上に特殊な能力が必要とされた水軍は、優遇されることはあっても、粛清されることは少なかったようです。
戦乱の世が終わると三崎城の「城」としての機能も薄れていったようですが、やがて、旧城下に三崎奉行所・三崎番所が置かれ、そこに徳川水軍の将・向井将監忠勝を配すなど、より海上の警備に主眼を置いた行政の機関へと、スリム化されつつ継承されていきました。向井忠勝の屋敷は、三崎城跡に建てられたようです。
この後も、組織の改編をともないながらも、三崎の三浦半島や江戸湾(東京湾)防備や交易の拠点としての位置づけは、明治に至るまで、大きく変わることはありませんでした。
三崎城には、三浦道寸(義同)・荒次郎(義意)父子が率いる相模三浦氏終焉の地となった、油壺の新井城の背後を守る支城の役割があったと考えられています。三崎城と新井城は一つの城だったという見方もあるようですが、直線距離で2kmほどしか離れていませんので、連携して機能していたことはまちがいないでしょう。
INDEX
現代に至るまでまちの中心であり続けた三崎城
三崎城があったと考えられる場所は、「城山」と呼ばれています。現在は三浦市役所や旧三崎中学校(2014年に上原中学校と統合されて、旧上原中学校の校舎が三崎中学校となる)などがある場所で、このあたりの住所も三浦市「城山町」と言います。
三崎城の本丸は、三浦市役所の隣り、旧三崎中学校の目の前にあたる場所に広がる、平場にあったとされています。周辺には、土塁か空堀の跡と考えらえるような遺構も残っています。
多くの山城は、攻め込まれにくい山上に築かれることが多いというその地理的条件によって、城としての機能を終えると自然に還っていく場合が多いものですが、水軍の拠点であった三崎城は海辺のまちに隣接していたため、現代に至るまで市役所のようなまちの中心的な機能が置かれる場所として利用されてきました。(三浦市役所は、引橋の県立三崎高校跡地に移転する計画があります)
三崎城跡周辺に残る後北条氏ゆかりの地名
三崎城の遺構は、現在は車道になっている堀切を挟んだ南側の、本瑞寺や光念寺、三崎小学校周辺でも見られます。この辺りは、宝蔵山や北条山などと呼ばれていました。
北条山や城下の北条湾は、相模三浦氏を敗ってこの地を治めることになった、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏に由来します。後北条氏は、その後、5代に渡り三崎城の城主を務め、同じく三浦半島の浦賀城とともに、敵対関係にあった房総半島の里見氏との戦いの拠点などとして使用しました。
この際、後北条氏は、相模三浦氏に仕えていた水軍を自らの家臣に迎えていて、三崎十人衆という名前で知られています。
宝蔵山や北条山といった名前がいつごろ付けられたのかは分かりませんが、読み方が近いことから、宝蔵山(ほうぞうやま/さん)は北条山(ほうじょうやま/さん)の由来となった後北条氏が滅んだ後に付けられた名前なのかもしれません。
源頼朝の桜の御所として知られた行楽の地
江戸時代初期に成立した後北条氏にまつわる軍記物語「北条五代記」には、後北条氏第3代当主・北条氏康はこの地で桜のお花見をたのしんだことが記されています。
後に三崎城となる北条山/宝蔵山では、鎌倉時代に源頼朝が多数の桜の木を植えて、やはりお花見をたのしんでいます。本瑞寺は、源頼朝の「桜の御所」跡として知られています。
海を望む高台にある三崎城は、行楽の地としても人気の場所でした。
▼源頼朝の三崎三御所▼