歌舞島公園は、三崎漁港の相模湾側にある小さな公園です。歌舞島の名前の由来は、この地で源頼朝に歌舞宴楽を披露したことからというものや、三浦一族の三浦義村が鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経を招いて催した来迎講の儀での読経歌舞にちなむというものなどが伝えられています。いずれにしても、鎌倉時代には行楽に訪れるような、景勝地だったようです。
歌舞島は、以前は海に浮かぶ島でしたが、海岸が隆起したことによって陸地と地続きとなり、海に突き出た岬になりました。
現在では二町谷地区の埋め立て事業によって目の前の海も埋め立てられ、海岸線は遠のいています。かつては風光明媚な場所だったであろうことを想像はできますが、現役の景勝地と呼ぶのには少々無理があると言わざるを得ません。
風光明媚の地は、その二町谷地区埋立地に整備された、二町谷北公園に譲ったと言って良いでしょう。
INDEX
三浦義村による海上での来迎講
平安時代から鎌倉時代にかけて、三崎の地は、三浦一族の所領でした。源頼朝によって幕府が開かれた鎌倉からほど良く離れた三崎には、三浦一族の当主であった三浦義澄やその子・義村らの招きによって、たびたび将軍家が来遊に訪れていたことが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも記されています。
その「吾妻鏡」によると、三浦義村が催した来迎講の儀は、海上に十数艘の舟を浮かべて、夕日の光が射す荘厳な雰囲気の中、行われたと言います。来迎講とは、阿弥陀信仰(浄土信仰)に基づいて菩薩たちが来迎する様子を再現した法会のことで、これを海上で催したのは、海に囲まれた三浦半島を本拠地としていて、阿弥陀信仰があつかった三浦一族ならではのイベントであったと言えます。
三浦市の防災無線としておなじみの「歌の町」の歌碑
歌舞島公園には、三浦市出身の作曲家・小村三千三が作曲した童謡「歌の町」の歌碑が建っています。「歌の町」は、三浦市の防災行政無線のチャイムとして使われています。毎日夕方になると市内に流れる、おなじみのメロディです。
海上漁撈の安全を祈念して建立された魚籃観音
歌舞島公園の広場の一角には、魚籃観音が祀られています。漁業関係者が海上漁撈の安全を祈念するために建立された観音様です。