横須賀・久里浜の八幡神社は、創建が奈良時代の720年(養老7年)と伝わる古社です。
八幡神社周辺では、古墳時代の古墳群や中世の住居跡などの遺構が発見されていて、古くからこの周辺に人の営みがあったことが確認されています。
八幡神社の正式名称は「はちまんじんじゃ」ですが、地元の人の多くからは「やはたじんじゃ」と呼ばれて親しまれています。近くに京急バスのバス停の名前も「八幡神社(やはたじんじゃ)」となっています。
1889年(明治22年)の町村制施行によって久里浜村になるまで、八幡神社の周辺は「八幡村」あるいは「八幡久里浜村」という村でした。このころから、地名としては「やわた/やはた」で、神社名としては「はちまんじんじゃ」でした。
主祭神 | 応神天皇 |
旧社格等 | ― |
創建 | 720年(養老7年) |
祭礼 | 1月1日 元旦祭 2月 初午祭 3月 祈年祭 6月30日 夏越祭 7月20日に近い土曜・日曜 夏季大祭「八雲祭」「湯立て神楽・神輿渡御」 9月 秋季大祭 11月23日 新嘗祭 毎月1日1・15日 月次祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
八幡神社の横の通りは桜並木になっています。この桜並木は、久里浜海岸方面から、2023年1月から供用開始したJリーグ横浜F・マリノスの練習場「F・マリノス スポーツパーク」の入口近くまで続いています。
INDEX
生活の拠点があったことを物語る八幡神社遺跡群
八幡神社は、奈良時代に当時の武人たちによって創建されたと伝えられています。御祭神の応神天皇は「武運の神」として信仰されてきているため、平安時代から鎌倉時代にこの地を治めていた三浦一族も当社と関わりあったと想像できます。
八幡神社から久里浜中学校や長安寺にかけての一帯では、古墳時代の古墳群や弥生土器が出土し、中世の住居跡などの遺構も発見されています。
現在の八幡神社は海や川からも距離が離れていますが、江戸時代に新田開発が行われるまでは、久里浜湾から三浦半島最大の河川である平作川沿いに深く入り江が入り込んだ、海岸線沿いまたは湿地帯にありました。漁業には恵まれた土地であったことや、平作川を通じて三浦半島の内陸部まで舟で移動もできる場所であったため、古くから生活の拠点とするのに適した場所であったと考えられます。
この八幡神社遺跡群の周辺では、他にも、蓼原遺跡や茅山貝塚、吉井貝塚など多くの遺跡が発見されています。
八幡神社境内に祀られた海軍工作神社
平作川の河口に位置する久里浜は、江戸時代に砂村新左衛門によって新田開発が行われると、三浦半島で最大の平野を有する場所になりました。この結果、江戸時代の久里浜は、三浦半島で最大の米の耕作地となりました。
明治時代以降、横須賀は軍港化が進められていきましたが、昭和に入り、横須賀軍港の拡張が限界に達すると、南に10kmほど離れた久里浜にも軍の施設が置かれるようになっていきました。
その主要な施設の一つが海軍工作学校でした。海軍工作学校は旧日本海軍の教育機関で、艦船修造のための工作術などを専門とした技師を養成するために置かれました。海軍工作学校があった場所は、戦後、横須賀市立の横須賀商業高校や横須賀工業高校(ともに、現在の横須賀総合高校)や、久里浜小学校、明浜小学校などの文教地区に生まれ変わっています。
第二次世界大戦では、この海軍工作学校の多くの卒業生が命を落とすこととなり、学校跡地に位置する久里浜公園では、毎年5月22日に慰霊祭が行われています。
海軍工作学校のあった場所にもほど近い八幡神社の境内にも、この学校に由来する海軍工作神社が祀られています。
久里浜八幡神社の神事・例祭
八幡神社では、例年、6月と12月に、心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願する神事である「茅の輪くぐり」が、7月には「八雲祭」が行われています。