浪子不動園地は、逗子海岸の北側(鎌倉寄り)にある、小さな公園です。背後の山の山頂には披露山公園があり、浪子不動ハイキングコースで結ばれています。
浪子不動園地の名前の由来となった浪子不動は、山すそに建つ高養寺の愛称です。この場所が、明治から昭和初期に活躍した小説家・徳冨蘆花のベストセラー小説「不如帰」(「ほととぎす」または「ふじょき」)の舞台になったことから、このように呼ばれるようになりました。
浪子不動園地の目の前の、国道134号を挟んだ海上には、「不如帰の碑」が建てられています。
海を望む景色が良い公園ですが、南側に開けているため、夕日を見るのであれば逗子海岸のほうがオススメです。季節によりますが、浪子不動園地から見る夕日は、山頂に大崎公園がある、すぐ西隣りの岬の方角に沈んでいきます。
INDEX
小説「不如帰」の舞台となった不動尊
なおりますわ、きっとなおりますわ、――あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!
徳冨蘆花「不如帰」(1900)
徳富蘆花の小説「不如帰」で、結核を患う主人公の一人浪子は、夫・武男とともに訪れたこの場所で、涙ながらにこのように訴えかけます。うららかな春の日のことです。
その年の秋、一人でこの場所を訪れた浪子は、戦地に赴く武男からの手紙を読み返しながら、思い出のこの地で、海に身を投げようとします。
詳しく書くとネタバレになりますので止めておきますが、小説「不如帰」の中でこの場所は、春と秋の場面が対照的に描かれていて、これが物語のなかのハイライトの一つになっています。
小説「不如帰」は、徳富蘆花が逗子に住んでいたときに、療養に訪れていた婦人から実際に聞いた話をもとに、脚色して書かれたことが、「不如帰」第百版の巻首で自ら語られています。
なお、小説「不如帰」は「ほととぎす」と呼ぶのが一般的になっていますが、蘆花自身は同じ第百版の巻首のなかで「ふじょき」と呼んでいます。
ここから、弓なりに湾曲する逗子海岸を挟んだちょうど対岸に位置する桜山には、もう一つ、蘆花にちなんだ公園として蘆花記念公園があります。蘆花記念公園には、蘆花の文学碑や、自然をテーマにした随筆「自然と人生」を抜粋した木札が並ぶ園路「蘆花散歩道」などがあります。
かつては波切不動や白滝不動と呼ばれていた
この不動尊には、海上の安全を守護する不動明王が祀られ、地元・小坪の漁師から厚く信仰されてきました。そのため、以前は「波切不動」や「白滝不動」などと呼ばれていました。白滝という呼び名は、本堂の左手奥にある小さな滝が由来です。
小説「不如帰」の中でも、「滝の不動」と呼ばれていたり、滝の音が効果的に使われていたり、この滝が良いアクセントになっています。
この滝の横からは、背後にある山の頂にある披露山公園まで、浪子不動ハイキングコースが続いています。ハイキングコースと言いましても片道徒歩15分ほどで着いてしまいますが、緑の中を快適にお散歩することができます。
披露山公園からは、岬の突端にある大崎公園まで歩けるようにもなっています。
「浪子不動」の前の海中に建てられた「不如帰の碑」
1900年(明治33年)に小説「不如帰」が出版されて、ベストセラーになってからは、ヒロインの浪子の名前をとって「浪子不動」と呼ばれるようになりました。
1933年(昭和8年)には、「浪子不動」のすぐ前の海中に、「不如帰の碑」が建てられました。この碑に刻まれた「不如帰」という文字は、蘆花の兄であり、近代日本を代表するジャーナリストの、徳富蘇峰の筆によるものです。「不如帰の碑」は、普段は碑の下の部分が海に隠れた状態ですが、干潮の時には海面から全体が姿を現わし、陸側から渡ることができます。このあたりの海岸は葛ヶ浜と呼ばれていて、1923年(大正12年)の関東大震災の際に隆起した岩礁地帯になっています。
「不如帰の碑」の裏側も、普段は海上からしか見られませんが、干潮時は磯伝いにまわり込んで見ることができます。「不如帰の碑」の裏側には、徳冨蘆花の本名である「徳富健次郎之碑」と刻まれています。
現在の正式名称は高養寺
現在の「浪子不動」の本堂は、葉山にあった慶増院の建物を移築したものです。廃寺同然だった慶増院は昭和初期に再興されて、高養寺に改名されました。「高養寺」という名前の由来は、葉山にゆかりがある二人の政治家・高橋是清と犬養毅からきています。
その後、1953年(昭和28年)に高養寺は現在の場所に移転して、「浪子不動」と統合され、現在に至っています。
なお、高養寺は無住のお寺で、逗子・池子の東昌寺が管理しています。
山号 | 白滝山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 不動明王 |
創建 | 不詳 |
開山 | 不詳 |
開基 | 不詳 |
逗子海岸が縁の「さくら貝の歌」
「さくら貝の歌」は、昭和初期にヒットした歌謡曲です。この歌を作詞した土屋花情は当時逗子市役所に勤めていて、逗子海岸を歩きながら詩の構想を練り、歌詞を書いたと言われています。このことが縁で、逗子海岸を望む浪子不動園地に歌碑が建てられています。
「さくら貝の歌」の歌詞は、作曲者である八洲秀章が由比ヶ浜に打ち上げられたさくら貝を詠んだ短歌をもとにしているという縁で、由比ヶ浜にも「さくら貝の歌」の歌碑が建っています。