鎌倉・御成町の鎌倉市役所横に鎮座する諏訪神社は、鎌倉時代中期に活躍した武将・諏訪盛重が、自らの屋敷に信濃国・諏訪大社を奉還したのがはじまりと伝えられています。
諏訪盛重は、鎌倉幕府の有力御家人であるとともに、北条氏得宗家(本家)に仕える御内人(家臣)でした。また、軍神として崇められてきた諏訪大社の大祝職(最高位の神官)であったともされていて(諸説あり)、武将と神職を兼ねた、幕府の中でも特異な存在だったと考えられます。
かつては現在の御成小学校の敷地(1931年(昭和6年)に廃された旧鎌倉御用邸跡地)にありましたが、1968年(昭和43年)の鎌倉市役所新築工事の際に、現在の場所に遷座しました。
主祭神 | 建御名方神 |
旧社格等 | ― |
創建 | 鎌倉時代中期ごろ |
祭礼 | 8月2日 例祭 ※実際の日にちは異なる場合があります |
諏訪氏の鎌倉幕府や北条氏得宗家との関わりは、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」でたびたび見られます。しかし、その関係がよりクローズアップされるのは、むしろ鎌倉幕府が滅亡した後のことです。
鎌倉幕府第14代執権で北条氏得宗家最後の当主・北条高時の遺児・北条時行は一時的に鎌倉を奪還しますが、その後ろ盾となったのが諏訪大社の大祝・諏訪頼重です。近年、この中先代の乱と呼ばれる出来事を題材に、北条時行を主人公とした漫画「逃げ上手の若君」がTVアニメ化されたこともあり、より注目を集めています。
鎌倉での諏訪氏や北条時行ゆかりの地は多くなく、諏訪氏の屋敷にルーツを持つ御成町諏訪神社は、貴重な聖地巡礼先と言えます。

INDEX
鎌倉幕府滅亡後も北条氏に仕えた諏訪氏

1333年(元弘3年)、新田義貞らによる鎌倉攻めで北条高時とその一門の多くは東勝寺で自害して、鎌倉幕府は滅亡します。しかし、その際、鎌倉幕府第14代執権で北条氏得宗家最後の当主・北条高時の子・北条時行は、御内人であった諏訪盛高に匿われて信濃国に逃れます。
1335年(建武2年)、諏訪大社の大祝・諏訪頼重は北条時行を擁立して、後醍醐天皇による新政に不満を持つ者や北条氏残党とともに、挙兵します。北条時行の勢力は一時的に鎌倉の奪還に成功しますが、長くは続かず、足利尊氏の軍勢に制圧されてしまいます。
室町時代に成立した軍記物語「太平記」によると、このとき北条時行は逃れたものの、諏訪頼重らは鎌倉の勝長寿院(大御堂)で自刃したと言います。
一時的にとは言え、建武の新政でも東国支配の拠点と位置付けられていた鎌倉を少数勢力で奪還することができたのは、当時10歳程度だったとみられている北条時行の力と言うよりは、諏訪頼重の武将としての能力の高さが大きかったからなのでしょう。

鎌倉中心エリアに残る唯一の「諏訪神社」

江戸時代後期に成立した地誌「新編相模国風土記稿」によると、このころには鎌倉の各地で諏訪社が祀られていたことが分かります。その後、明治維新以降に国が進めた神社合祀の政策(一村一社の令)もあり、現在、鎌倉の中心エリアで「諏訪神社」を名乗るのは、ここ御成町諏訪神社が唯一です。
その御成町諏訪神社も、「新編相模国風土記稿」には該当しそうな諏訪社は見当たらず、江戸時代はかなり規模が小さかったものとみられます。
この近くでは、旧大町村内の米町に神明宮と並んで鎮座する諏訪社(下の諏訪)の記録が見えますが、現在、大町の八雲神社に諏訪神社が合祀されていますので、これが該当しそうです。また、現在、扇ガ谷の巽神社にも、諏訪神社が合祀されています。(鎌倉市御成町という町名は、鎌倉御用邸があったという故事に由来して、戦後に誕生した地名です。それ以前は、大町や小町、扇ガ谷の一部でした)
しかし、現在地に遷る直前には、諏訪の森と呼ばれた鎮守の杜まである、一定の規模の神社にまで整備されています。鎌倉御用邸が設置されていたことで空間的な余裕があったということも影響していたのでしょうけれど、地域の方々の信仰心がなければ保つことはできません。
諏訪氏自らが信濃国・諏訪大社を奉還して創建された神社という由緒に加えて、鎌倉幕府滅亡後も北条氏に仕えた諏訪氏の神社だからということも、現代の鎌倉人の心をつかんでいるのかもしれません。
御成町諏訪神社周辺の見どころ



