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和田塚(和田義盛の墓) | 江ノ電の駅名の由来になった一族終焉の地

和田塚(撮影日:2021.01.29) 鎌倉
和田塚(撮影日:2021.01.29)

和田塚は、1213年(建暦3年)に鎌倉の市中で起きた和田義盛の乱和田合戦)で敗死した、和田一族の屍を埋葬した塚と伝えられています。由比ヶ浜の海岸にほど近い、住宅や商店などに囲まれた一角にあるこの場所には、いくつもの供養塔や小さな五輪塔などが並んでいます。
目と鼻の先にある江ノ電の和田塚駅の名前は、もちろんこの和田塚に由来しています。

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歴代の鎌倉殿の側近として幕府を支えた和田義盛

和田義盛わだ よしもりは、三浦一族三浦義明の孫、杉本義宗の子で、三浦義村は従兄弟にあたります。源頼朝による平家討伐の挙兵以来、頼朝の側近として鎌倉幕府創設に貢献しました。幕府では、侍所別当として、軍事・警備面において、有力御家人を束ねる立場にありました。頼朝亡き後も、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家を支える「13人の合議制」の一人に選ばれています。

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鎌倉市中最大規模の市街戦で散った和田一族と和田義盛の墓

その後もしばらくは鎌倉幕府の実質的な支配者である執権北条氏と協調して幕府を支えていましたが、和田義盛の子・義直や甥の胤長らが、源頼家の遺児を将軍(鎌倉殿)に擁立して時の執権・北条義時を打倒する企てをたてている罪で捕まったことで急変します。
和田義盛源実朝に許しを請うなど、事態の収拾に奔走しますが、北条義時の挑発にあい、形勢は悪くなる一方でした。決定的だったのは起請文まで交わしていた三浦義村が裏切り、北条義時和田義盛挙兵の知らせを告げたことでした。

後に引けなくなった和田義盛は、御所や北条義時邸を襲いますが、すぐに反撃にあい、由比ヶ浜まで追い詰められてしまいます。
和田義盛和田一族とその縁者たちは、由比ヶ浜和田義盛邸のあった若宮大路で戦いますが、三浦義村を含む有力御家人の多くが味方した幕府方には勝てず、安房(房総半島)に逃れた義盛の三男・朝比奈義秀ら一部を除いて、討死してしまいます。

和田義盛やその一族の多くは、最期の地に近いこの和田塚に葬られたと伝えられています。
和田義盛の乱和田合戦)は、鎌倉時代に鎌倉市中で起きた最大規模の市街戦と見られていて、2日間で数千人の死者を出しました。和田塚の周辺では、明治時代の道路工事で、埴輪や多くの人骨が見つかっています。

和田塚・和田義盛一族の墓(撮影日:2021.01.29)
和田塚・和田義盛一族の墓(撮影日:2021.01.29)
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和田塚周辺の見どころ

DATA

住所 鎌倉市由比ガ浜2丁目
アクセス
行き方

江ノ電「和田塚駅」より、徒歩約1分

駐車場 なし(近隣にコインパーキングあり)
料金

無料

※掲載の内容は、予告なく変更となっている場合があることをご了承ください。

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