大江稲荷は、鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)として源頼朝を支えた側近の一人・大江広元を祀る社です。大江広元はこの近くに屋敷を構えていたとされています。また、大江稲荷の裏山にあたる山中には、大江広元の墓と伝わる五層の石塔が建っていて、明王院の脇から天園ハイキングコースに繋がる山道を経由してお参りすることができます。
大江稲荷の鎮座する旧鎌倉郡十二所村は、武家の出身ではなく、文官として京から鎌倉に下り、鎌倉幕府創設期を中心メンバーとして支えた大江広元のゆかりの地です。
主祭神 | 大江広元 |
旧社格等 | ― |
創建 | 不詳 |
稲荷小路の大江稲荷
大江広元を祀る大江稲荷の御神体は、普段はこの西側のほど近い場所にある明王院に安置されています。この御神体は、毎年2月に、初午祭が執り行われるときだけ大江稲荷に移されて、御開帳されます。
明王院自体も、大江広元の四男・毛利季光の領地だった場所に建立されたという経緯があり、明王院は大江広元とゆかりの深い寺院でもあります。
大江稲荷創建の由緒は詳しく分かっていませんが、大江稲荷が鎮座する稲荷小路(十二所村の旧字)には遅くとも室町時代には稲荷社があって、明王院が管理をまかされていました。この稲荷小路の稲荷社が大江稲荷の前身で、いつしか、この地にゆかりの深い大江広元を祀るようになったと考えるのが可能性として高そうです。
大江稲荷や明王院の並びにあった九条家ゆかりの月輪寺
大江稲荷が鎮座する稲荷小路のあたりには、かつて、月輪寺(廃寺)という寺院がありました。鎌倉幕府3代執権・北条泰時の長男・北条時氏の戒名が月輪寺禅阿であることから、月輪寺は北条時氏の菩提寺だったと考えられます。
なお、鎌倉の月輪寺は現存せず、詳細も分かりませんが、今も京都に「鎌倉山月輪寺」という寺院があります。京都の月輪寺は、奈良時代またはそれ以前の創建と伝えられ、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿・九条兼実が出家した寺でもあります。その山号から、鎌倉にもゆかりが深いことが分かります。
九条兼実のひ孫にあたる藤原頼経(九条頼経、幼名は三寅)は、後に鎌倉に下って、鎌倉幕府第4代将軍となり、大江稲荷や月輪寺の並びに、明王院を創建することになります。
鎌倉の月輪寺にゆかりがあると考えられる北条時氏の娘は、藤原頼経の子である鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣(九条頼嗣)の正室となっています。
京都の鎌倉山月輪寺も絡み合いながら、鎌倉の十二所のごく狭い範囲でいろいろとつながり合っていることが興味深いところです。