鴨居八幡神社は、観音崎と浦賀の間にある鴨居海岸に面して鎮座する神社です。平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて鴨居周辺を治めていた三浦一族の多々良義春(三浦義春)が、源家の命を受けて、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したと伝えられています。
かつては、観音崎の南側に広がるたたら浜の奥の谷戸に鎮座していたと言われています。
1909年(明治42年)、一村一社の政索により、旧鴨居村に鎮座していた須賀神社(天王社)や亀崎神社、三浦義春を祀る近戸神社など、11社が鴨居八幡神社に合祀されました。
この中でも須賀神社は別格の扱いだったようで、現在でも鴨居八幡神社でもっとも盛大な祭礼は、7月最後の土日に「須賀神社例大祭」として催されています。
主祭神 | 誉田別尊 素盞嗚尊(須賀神社) |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1181年(養和元年) |
祭礼 | 1月1日 歳旦祭 1月15日 祈年祭【齋燈(どんど焼き)】【初神楽】 2月11日 初午祭 5月25日 天満社例祭 6月30日 大祓式 7月最終土曜日 須賀神社例大祭【宵宮祭】 7月最終日曜日 須賀神社例大祭【お浜降り】【とっぴきぴーおどり】 9月15日 八幡神社例祭 11月25日 新嘗祭【終神楽】 11月29日 酉の市 12月31日 大祓式 ※実際の日にちは年によって異なる場合があります |
鴨居の脇方地区に江戸時代より伝わる仮面里神楽「とっぴきぴーおどり」(横須賀市指定民俗文化財)は、大漁満足・五穀豊穣・海上安全などを祈念するため、須賀神社(天王社)に奉納されてきた郷土芸能です。演者は里神楽のお面をつけて、祭り囃子のリズムに合わせて踊ります。セリフはなく、無言で身振り手振りで情景が表現される、独特なスタイルの踊りです。
明治時代に須賀神社が鴨居八幡神社に合祀された後も、毎年7月に鴨居八幡神社で催される「須賀神社例大祭」で披露されてきましたが、後継者不足もあり、近年は見送られることが多くなっています。
![鴨居八幡神社・二の鳥居越しに一の鳥居、鴨居海岸方面を望む(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/d9a1c0475a19e66b7a0d15d4d8c2137e-1200x800.jpg)
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八幡神社を創建した三浦一族の多々良義春
![鴨居八幡神社・二の鳥居より社殿を望む(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/b51efefa5bcdfd9b8a20c8ea555eb518-1200x800.jpg)
鴨居八幡神社を創建した多々良義春(三浦義春)は、三浦氏宗家(本家)の第4代当主・三浦大介義明の四男で、第5代当主・義澄の弟です。
平安時代後期、三浦義明が当主だった時代、義明の弟・為清は蘆名城(芦名城)、義明の長男・義宗は杉本城(現在の杉本寺周辺)、十男の義連は佐原城といったように、義明は兄弟や子どもらを三浦半島の各地に配し、一族を挙げて三浦半島一帯を治めていました。
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そのような三浦一族の氏族にあって多々良氏は、歴史の表舞台に登場することが少なく、あまり詳細なことは分かっていません。
上総国や尾張国、信濃国内などに根拠地を持ち、江戸時代後期には佐久間象山を輩出した佐久間氏の祖・佐久間家村は多々良義春の子で、「多々良氏」よりも「佐久間氏」のほうが著名な氏族と言えます。
頼朝の時代に創建された三浦半島でもめずらしい八幡神社
![鴨居八幡神社・社殿(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/f88af7f820bcb7b0a352ea228b948e32-1200x800.jpg)
「多々良氏」としてもっともよく知られているのは、小坪合戦(由比ヶ浜の戦い)で戦死した多々良義春の三男・重春についてのエピソードです。
1180年(治承4年)、源頼朝が平家討伐のため伊豆で挙兵すると、三浦一族もこれに呼応するかたちで頼朝らのもとに向かいます。しかし、大雨による川の増水により足止めにあい、引き返す途中に由比ヶ浜で畠山重忠ら平家方の軍勢と合戦になります。このとき、17歳という若さで戦死したのが多々良三郎重春でした。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、三浦一族の軍勢では重春の他、郎従の石井五郎らも戦死していますが、畠山重忠の軍勢も50名ほど命を落としていて、このときは、どちらかと言うと重忠の軍勢のほうがダメージが大きかったようです。
多々良三郎重春の墓は、重春の死の数日後に衣笠城で命を落とした三浦義明の墓と並んで、由比ヶ浜に近い材木座の来迎寺に建っています。来迎寺は、源頼朝が三浦義明の霊を弔うために建立したという能蔵寺を前身にもつ寺院です。
三浦一族の活躍と少なくはない犠牲もあり、その後、源頼朝は鎌倉入りし、幕府を開くことになります。多々良義春が源家の命を受けて、鶴岡八幡宮を勧請して八幡神社を創建したというのは、この翌年のことです。「吾妻鏡」には、この年の6月、頼朝が遊覧のため葉山など三浦半島を訪れたことが記されています。多々良義春に命が下ったのは、このときなのでしょう。
全国に広く分布している「八幡神社」や八幡神を祀る神社は、三浦半島にも多く鎮座しています。しかし、数ある三浦半島の「八幡神社」の中でも、源頼朝の時代に創建されたという由緒を持つ神社は意外とめずらしい存在です。鎌倉幕府創設の陰で命を落とした多々良三郎重春やその父・義春の、武功や慰労の意味を込めて、頼朝が八幡神社の創建を命じたのかもしれません。
須賀神社と八幡神社の二基の御神輿
![鴨居八幡神社・神輿庫(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/f9d2e5b082bcd04e46ae27d68f994d45-1200x800.jpg)
鴨居八幡神社の神輿庫には、2基の神輿が鎮座しています。赤い神輿が旧須賀神社の御神輿で、7月の「須賀神社例大祭」で使用されます。黒い神輿が八幡神社の御神輿で、9月の「八幡神社例祭」で使用されます。ともに、江戸時代中期以降の作とされています。
2009年には、氏子や地域住民などの寄付もあり、大規模な修復がされています。
鴨居八幡神社の境内社
天満社(天神さま)
![鴨居八幡神社・天満社(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/6aad2802f5e83551ed3a7a4b1b85a1f6-1200x800.jpg)
「学問の神様」として親しまれている菅原道真を祀っています。鴨居の天満社は、江戸時代前期の1649年(慶安2年)勧請と伝えられています。
稲荷神社
![鴨居八幡神社・稲荷神社(撮影日:2024.01.23)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2024/01/4eb82a6347c3ebabf363b1858437df9b-1200x800.jpg)
鴨居八幡神社周辺の見どころ
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