「六代(六代御前)」とは、平安時代後期に栄華を極めた平氏一門の平高清の幼名です。六代は平維盛の子で、平清盛のひ孫にあたります。「六代」という名前は、平氏全盛期の基礎を築いた平正盛から数えて、清盛や維盛ら直系の6代目にあたることから名づけられました。
逗子駅から海岸まわりの葉山一色行きのバスに乗ると、逗子・葉山駅の次のバス停が「六代御前まえ」という名前のため、「六代御前」ってなに?と思われる方も多いことでしょう。
壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅ぶと、京にいた、幼少だった六代は源氏方に捕らえられました。このときは、源頼朝と親交のあった僧・文覚の助命懇願によって処刑をまぬがれました。しかし、頼朝死後の政争に巻き込まれるかたちで文覚が流罪になると、庇護者を失った六代は処刑されたと伝えられています。
六代御前供養祭は、毎年7月26日に、六代御前の墓のたもとに建つ六代山不動院(六代御前不動院)で、神武寺(別当)によって執り行われています。
六代山不動院は、三浦不動尊霊場第26番札所になっています。
山号 | 六代山 |
宗派 | 天台宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 不動明王 |
創建 | 不詳 |
開山 | 不詳 |
開基 | 不詳 |
六代御前処刑の伝承
六代の処刑については、鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」などの当時の史書には記述がなく、あくまで伝承とされています。その伝承の一つに、逗子の田越川のほとりで処刑されたというものがあり、古来よりこの場所で供養が行われてきたと言います。
六代がどこに葬られたのかも確かなことは分かっておらず、この、田越川の近くに建つ「六代御前の墓」も供養塔とされています。
六代は文覚のもとで「妙覚」と号して出家していました。当時の歴史書等に記録が残っていないこととともに、師である文覚が流罪であったのに対して、弟子の六代が処刑されるという不可解さが伝承の域をでない出来事にしています。
ただ、同じ一人の僧とはいえ、「文覚」と「平家直系の嫡男」とでは立場がまったく違います。当時の鎌倉幕府の性格を振り返れば、まったくあり得る話です。
このような伝承が残ると言うことは、六代とこの場所とはなんらかのゆかりがあったと見るのが自然で、鎌倉幕府のおひざ元であったことから、ひっそりと口承されてきたのかもしれません。
鎌倉から一山越えた処刑地
田越川には、六代とほぼ同じ時代を生きた、三浦胤義(平九郎)の遺児が処刑されたという伝承も残されています。六代御前の墓があるあたりより、少し上流には三浦胤義遺孤碑が建っています。
三浦胤義は、鎌倉時代前期に活躍した武将で、三浦義澄の子、三浦義村の弟です。胤義は、その多くが幕府に仕える三浦一族でありながら、鎌倉幕府と朝廷の全面戦争となった承久の乱では朝廷側の主力として戦い、最期は自害します。
その胤義の残された幼い子どもらが、田越川のほとりで処刑されたとされています。
中世の田越川下流域は、処刑場だったのでしょう。鎌倉から一山越えた、少し離れた場所にありましたので、あまり公にしたくない者たちの。
六代御前のケヤキ
六代御前の墓にあるケヤキの巨木は、かながわトラストみどり財団・三浦半島地区推進協議会が選定した「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」に選ばれています。晩秋には、ケヤキならではの美しい紅葉のグラデーションを見せてくれます。
六代御前の墓周辺の見どころ
六代御前の墓の脇からは、神奈川県内最大級の前方後円墳である、長柄桜山古墳群に続く山道が続いています。