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三浦胤義遺孤碑 | 承久の乱で兄と戦って散った義村の弟平九郎の遺児鎮魂の碑

三浦胤義遺孤碑(撮影日:2022.06.17) 逗子
三浦胤義遺孤碑(撮影日:2022.06.17)

三浦胤義みうら たねよし(平九郎)は、鎌倉時代前期に活躍した三浦一族の武将で、三浦義澄みうら よしずみの子、三浦義村みうら よしむらの弟です。正室は、鎌倉幕府第2代将軍(鎌倉殿)源頼家の妻の一人であった、昌寛しょうかん一品房昌寛)の娘が再嫁したと伝えられています。

三浦胤義は、畠山重忠の乱和田義盛の乱(和田合戦)では、兄の三浦義村と行動を共にしましたが、鎌倉幕府と朝廷の全面戦争となった承久の乱では朝廷側の主力として幕府側の三浦義村らと対峙することになりました。しかし、承久の乱で敗北した胤義は、自らの子らとともに自害しました。

遺された三浦胤義の他の子らも、年長の豊王丸を残して、逗子の田越川の河原で処刑されたと伝えられています。田越川の京急逗子線の逗子・葉山駅近くには、幼くして斬られた胤義の遺児らを偲んで建てられた、三浦胤義遺孤碑が残っています。

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承久の乱で上皇方の主力として戦った三浦義村の弟・胤義

1221年(承久3年)に承久の乱が起きる前、三浦胤義は朝廷に仕える検非違使けびいしとして京に上がっていました。承久の乱当時も検非違使だったのか、他の理由があった京に残っていたのか、詳しいことは分かっていません。
三浦胤義には、北条氏によって失脚・暗殺された源頼家の妻の一人が嫁いでいたため、北条氏が実権を握る鎌倉幕府とは微妙な関係にあった可能性もあります。

いずれにしろ、北条義時率いる鎌倉幕府と後鳥羽上皇率いる朝廷の全面戦争となった承久の乱では、三浦胤義は朝廷側に中心メンバーの一人として付くことになります。三浦胤義には、時の鎌倉幕府の執権・北条義時に追討の院宣が出れば、策士である兄・三浦義村も味方に付くだろうという打算があり、後鳥羽上皇もこれを期待して三浦胤義を取り込んだと考えられます。
三浦胤義義村に、朝廷側の味方に付くよう使者を送りますが、義村はこれを追い返し、さらに、胤義からの密書を北条義時に届け、本格的な開戦前に朝廷側の思惑は大きく崩れることになります。

三浦義村を味方に付けることができなかった後鳥羽上皇率いる朝廷側は、幕府側との戦力差を埋めることができず、各地の戦いで大敗します。
敗北が決定的になると、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を取り消し、代わりに三浦胤義らに逮捕の院宣を下します。上皇に見捨てられた三浦胤義は、京都の東寺に立て籠もって三浦義村が率いる軍勢と戦った後、自害しました。

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三浦胤義の遺児たちが処刑されたとされる田越川

三浦胤義が自害したとき、行動を共にしていた二人の子も、ともに自害しました。

鎌倉時代の軍記物語「承久記」によると、三浦一族の本拠地である矢部郷(現在の横須賀市大矢部周辺)に預けられていた三浦胤義の他の遺児も幕府から差出の命令を受けて、4人の子どもが逗子の田越川の河原で処刑されたと言います。このとき、遺児を匿っていた祖母(三浦義澄の妻、伊東祐親の娘。祖母ではなく、三浦義村の娘・矢部禅尼だったとする説もあります)の必死の抵抗によって、年長の豊王丸(11歳)だけが助かっています。

この時代ではめずらしいことでありませんが、一族を二分した戦いで、何の罪もない幼い子どもたちが巻き添えとなって殺害されたという悲劇の物語は、後世まで語り継がれていくことになります。
江戸時代に編さんされた相模国の地誌「新編相模国風土記」には、田越川の河原には、8万4千基の石塔が建っていたこと記されています。現在この石塔を見ることはできませんが、1923年(大正12年)に建てられた三浦胤義遺孤碑が悲劇を語り継いでいます。

田越川・三浦胤義遺孤碑前から仲町橋方面を望む(撮影日:2022.06.17)
田越川・三浦胤義遺孤碑前から仲町橋方面を望む(撮影日:2022.06.17)
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三浦胤義遺孤碑周辺の見どころ

DATA

住所 逗子市逗子5丁目
アクセス
行き方

京急逗子線「逗子・葉山駅(北口)」より徒歩約2分
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅(東口)」より徒歩約6分

駐車場 なし
※掲載の内容は、予告なく変更となっている場合があることをご了承ください。

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