太寧寺は、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の弟、三河守・源範頼(通称:蒲殿)の菩提寺です。太寧寺には、兄・源頼朝に謀反の疑いをかけられた源範頼の最期が伝承されていて、源範頼の墓があります。
かつての太寧寺は、六浦の海に面した瀬ヶ崎にありましたが、旧日本海軍の追浜飛行場拡張にともない、現在の場所に移転しました。瀬ヶ崎は源範頼の別邸があった、源範頼ゆかりの地です。伊豆に流された源範頼は、この地まで逃れてきて、太寧寺で自刃したとされています。
また、太寧寺には、「赤ひげ先生」のモデルとして知られる江戸時代の医者・小川笙船の墓もあります。
源範頼の墓も、小川笙船の墓も、寺の移転にあたって、ともに現在地に移っています。
山号 | 海蔵山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 薬師如来 |
創建 | 鎌倉時代前期 |
開山 | 千光国師栄西 |
開基 | 源範頼 |
INDEX
太寧寺で自刃したとされる 源範頼の墓
平家討伐の戦いでは、総大将として平家を滅亡に追いやる立役者の一人となった源範頼でしたが、兄である源頼朝に謀反の疑いをかけられて、失脚してしまいます。
1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士の巻狩りで曽我兄弟の仇討ち(曽我事件)が起こり、源頼朝も討たれたという誤報が鎌倉に伝わります。それを聞いて嘆き悲しむ北条政子に向かって、源範頼が「後にはそれがしが控えておりまする」と述べたことが原因とされています。
伊豆の修禅寺に流罪となった源範頼の最期は、はっきりとしたことが分かっていません。定説となっているのは、幽閉されていた修禅寺を梶原景時らに攻め入られて討死または自害したというものです。
しかし、太寧寺の寺伝によると、源範頼は相模国浦郷村(現在の横須賀市追浜)の鉈切まで逃れて、海に向かって建つ太寧寺(の前身の寺院である薬師寺)に入って自害したとされています。
太寧寺の名前は源範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から付けられたもので、現在も太寧寺には、源範頼の墓と伝わる五輪塔が残っています。
太寧寺ははじめ、瀬ヶ崎(現在の関東学院大学付属小学校付近)にありましたが、1943年(昭和18年)、旧日本海軍の追浜飛行場拡張にともない、現在の場所に移転しました。その際、太寧寺の裏山にあった源範頼の墓も移されています。
「追浜」の地名の由来など 源範頼ゆかりの地に残る伝承
瀬ヶ崎には源範頼の別邸があったとされ、この辺りはもともと源範頼ゆかりの地でした。そこへ逃れてきて、最期の地に選んだというのは、ありえない話でもなさそうです。
この源範頼の別邸にあった薬師寺から範頼の念持仏などが受け継がれたのが、現在、称名寺の近くにある薬王寺です。
また、「追浜」という地名も、源範頼が追手から逃れてきて上陸した浜だったことに由来するという説もあります。かつては、その際、範頼を匿ったとされる岩窟も残っていましたが、周辺の開発によって現存していません。
他にも、源範頼を助けた地元民に、自身の通称である蒲殿(遠江国蒲御厨で生まれ育ったことに由来します)にちなんで「蒲谷」という姓を与えたことから、今でもこのあたりに「蒲谷」姓が多いという伝承も残っています。
貧しい少女を助けた へそ薬師
太寧寺の本尊の薬師如来は、別名「へそ薬師」とも呼ばれています。
昔々、一人で暮らしていた貧しい少女が、両親の命日に供養もできず困っていました。そこで、家にあった糸を紡いで「へそ」(綜麻:糸を紡いで環状または玉状に巻き取ったもの)にして売り歩きましたが、まったく売れませんでした。しかし、あるとき一人の子どもがこれらを買い取ってくれたため、少女は両親の供養をすることができました。
この不思議な出来事のあと、太寧寺の薬師如来の前には「へそ」がたくさん置かれていて、薬師如来が孝行者の少女を助けたのだろうと言われるようになり、以来、「へそ薬師」と呼ばれるようになったと言われています。