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鐙摺の切通し(田越の切通し)| 源頼朝の伝承が残る逗子と葉山を結ぶ古今の難所

鐙摺の切通し・逗子海岸側から望む(撮影日:2025.07.04) 逗子
鐙摺の切通し・逗子海岸側から望む(撮影日:2025.07.04)

鐙摺あぶずりの切通しは、逗子市と葉山町の境に位置する、明治期に開削された近代の切通しです。葉山の海岸線を走る県道207号森戸海岸線上にあり、国道134号の長柄隧道、県道311号鎌倉葉山線の桜山隧道/新桜山隧道とともに、逗子市と葉山町を結ぶ主要な出入口の一つになっています。

正確には、鐙摺の切通しは全区間が逗子市内にあり、逗子市と葉山町の境界線は、ここよりも300mほど森戸海岸方面に行った、小浜海岸北端にあります。地名としての「鐙摺」はこの境界線の葉山町側にあって、京急バスの「鐙摺」というバス停も切通しの葉山町側にあります。
一方、鐙摺の切通しの逗子市側のバス停には「切通し下」という名称が付けられています。今では、すぐ側の渚橋逗子海岸のほうが圧倒的に知名度は高いですが、古くから地元にある呼び名を採用しているのは、バス停ならではと言えます。

鐙摺」の地名の由来の一つに、源頼朝鐙摺山鐙摺城)に登ろうとした際に、あまりに狭く急坂であったため、あぶみ(馬へ騎乗するときに足を乗せる馬具)をってしまったためというエピソードがあります(諸説あります)。このような伝承が残ることからも、昔の人がどれほど苦労してこの場所を通行していたのかということを物語っています。
鐙摺山の海側にあたる「鳴鶴ヶ崎」という地名も源頼朝に由来する説があるなど、鐙摺周辺には頼朝にまつわる伝承が数多く残されています。

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鐙摺山が由来の「鐙摺の切通し」と地名由来の「田越の切通し」

実は、この切通しの名前には、二通りの呼び名が伝わっています。
一つは、「鐙摺の切通し(鐙摺切通)」で、こちらのほうがいろいろな史料で目にすることができます。逗子と葉山の海沿いの境にある山は古くから「鐙摺山」と呼ばれていて、これを切り開いたので「鐙摺の切通し」と名づけたのでしょう。日影茶屋前の崖を指して「鐙摺の切通し」と呼ぶ史料もありますが、この場所を切通しと呼ぶのは適切ではありません。
もう一つは「田越たごえの切通し(田越切通)」で、昭和初期に発行された「逗子町誌」や、戦後の「逗子市誌」、「逗子子ども風土記」などの、逗子町/逗子市関連の史料に見られる名前です。

田越の切通し」の「田越」とは、現在でも、逗子市最大の河川である「田越川」の名に残る、田越川下流域の古い地名です。かつては旧桜山村の字名でした。桜山村逗子村などの周辺六村と合併した際には、「田越村」となりました(旧桜山村田越は、田越村大字桜山小字田越)。その後、田越村は、1913年(大正2年)に逗子町と改称しています。
この切通しが完成したときには、逗子町ではなく田越村でしたが、「田越の切通し」という名前は、この村名からではなく、切通しの逗子側にあたる、字名の「田越」から名づけられたものと考えられます。
鐙摺」は、現在の葉山町内である旧堀内村の字名であったことから、一般的に葉山町の地名として認識されています。自治体の境にある切通しとして、どちら側の地名で呼ぶか、自治体のプライドのようなものも感じざるを得ません。

しかし、現在では「鐙摺の切通し」や「田越の切通し」と呼ばれることは少なく、バス停の名前のように、単に「切通し」と呼ぶのが一般的なようです。また、近年の葉山町関連の冊子では「逗子の切通し」という表現も見られます。

切通し下バス停(撮影日:2025.07.04)
切通し下バス停(撮影日:2025.07.04)
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鐙摺の切通し(田越の切通し)の歴史

逗子町誌」などの近代の地誌によれば、鐙摺の切通しが開削されたのは、1905年(明治38年)のことです。それまでは、江戸時代後期の1858年(安政5年)に海沿いの鳴鶴ヶ崎(現在の逗子市浄水管理センター付近)を通した道か、より古くから存在していた鐙摺の山越えルートを使う必要がありました。

鐙摺の山越えルートは、東海道方面から浦賀奉行所に向かう西浦賀道西回り浦賀道)や三崎往還と言った主要道の一部でしたが、狭く険しい道でした。このため、1852年(嘉永5年) 、当時の代官に宛てて、鳴鶴ヶ崎の海岸線ルートの新設を求める願書が提出されました。出願者には、地元桜山村の有力者はもちろんのこと、三浦郡中総代で横須賀村名主の永島卯兵衛公郷村名主の永島庄兵衛も名を連ねており、横須賀方面や三浦郡の広い範囲の人々にとっての悲願だったことが分かります。

しかし、この鳴鶴ヶ崎の海岸線ルートも、満潮時には通行できないなど不便があり、その内陸にあたる鐙摺山を切り開いて、現在の切通しが造られることになりました。

車やバスなどでは気にも留めずに通り過ぎてしまうような、その歴史を知らなければ単なる「名もなき切通し」ではありますが、便利になり過ぎて、今では、三浦半島を代表する渋滞の名所の一つとして、通り抜けが困難になるということが頻繁に起きています。
そういった意味では、鐙摺の切通しは、今も昔も変わらず、逗子・葉山間の交通の難所と言えます。

鐙摺の切通し・葉山側から望む(撮影日:2024.08.03)
鐙摺の切通し・葉山側から望む(撮影日:2024.08.03)
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鐙摺の切通し(田越の切通し)周辺の見どころ

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葉山・鐙摺側

DATA

住所 逗子市桜山9丁目
アクセス
行き方

●徒歩の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅」より徒歩約25分
京急逗子線「逗子・葉山駅」より徒歩約15分

●バス利用の場合
JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅」または京急逗子線「逗子・葉山駅」より京急バス「葉山(一色)」行きなどの海岸回り葉山方面行きで『切通し下』下車

駐車場 なし(近隣にコインパーキングあり)
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