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鐙摺城跡・旗立山(軍見山)| 亀の前事件など源頼朝の様々なエピソードが残る三浦氏の居城跡

鐙摺城跡・旗立山(軍見山)周辺を大崎公園より望む(撮影日:2023.02.21) 葉山
鐙摺城跡・旗立山(軍見山)周辺を大崎公園より望む(撮影日:2023.02.21)

鐙摺あぶずり)」は、現在の逗子市との境にある葉山町の古い地名です。平安時代後期から鎌倉時代にかけて、このあたりに、三浦一族が支城の一つ鐙摺城を構えていました。城主は、このあたりを治めていた三浦一族大多和義久おおたわ よしひさ、または和田義盛わだ よしもり三浦義澄みうら よしずみとみられています。
本丸がどこにあったのかなど、詳しいことは分かっていませんが、源頼朝平家討伐の兵を挙げた際にその名前が登場します。
源氏平家が一族をあげて争った時代の軍記物語「源平盛衰記」では”小城”と表現されていることから、それほど大きな城ではなかったようです。

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三浦義澄が小坪合戦で味方を鼓舞した旗立山

1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、それに呼応した三浦義澄を大将とする三浦一族の軍勢は三浦半島を出発して、相模湾沿いを西へと向かいます。しかし、途中の川が増水していたため足止めされ、石橋山の戦いには間に合わず、頼朝らの敗北を知った義澄らは、引き返すことになります。
その帰路の途中、ここから逗子湾を挟んだ反対側の由比ヶ浜~小坪平家方畠山重忠らの軍勢と戦った際の記録に、鐙摺城(あぶずり、あふすり)が登場します。(小坪合戦小坪坂の戦い

現在、日影茶屋が建つ場所の前の海に面した小高い丘を鐙摺城跡鐙摺城址)とする案内も見られますが、実際には、この内陸の山を含む周辺を含めた場所を山城としていたという見方が自然です。
この日影茶屋の前の小高い丘は、小坪合戦三浦義澄が旗を立てて味方を鼓舞したことから、「旗立山」や「軍見山いくさみやま」などと呼ばれています。しかし、ここからは、大崎の岬が陰になり、三浦軍が前線として陣を敷いた小坪の様子も畠山軍が陣を敷いた由比ヶ浜の様子も、ほとんど見ることができないため、実際にはより後方の標高が高い場所が城の中心であったと考えられます。

葉山-鐙摺城址・旗立山(軍見山)周辺マップ

鐙摺城跡・旗立山(軍見山)の周辺
葉山港&小浜海岸 葉山マリーナ 逗子海岸 長柄桜山古墳群

旗立山(軍見山)を浪子不動より望む(撮影日:2021.06.15)
旗立山(軍見山)を浪子不動より望む(撮影日:2021.06.15)
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鐙摺は頼朝因縁の伊東祐親最期の地

小坪合戦から続く衣笠城合戦で敗北した三浦一族は、一族の長・三浦義明を失うものの、源頼朝らと合流して、勢力を拡大していきながら、坂東(関東)を制圧していきます。

富士川の戦いで、伊豆に流されていた源頼朝の監視役だった平家方の伊東祐親いとう すけちかも捕らえられ、三浦義澄に預けられます。義澄の妻が祐親の娘だったためです。伊東祐親は、頼朝と自身の娘・八重の子・千鶴丸を殺害したとされる、頼朝の因縁の相手です(諸説あります)。
その後、伊東祐親は、頼朝の妻・北条政子が後の源頼家を妊娠したことを受けて一度は恩赦となりますが、自刃または殺害されます。鎌倉時代の軍記物語「曽我物語」によると、その場所が鐙摺とされていて、旗立山の頂上には、祐親を供養する塚が残されています。

曽我物語」は史実をもとにしたフィクション性が高い物語とされているものの、鐙摺には三浦義澄の弟・大多和義久の館があったとされることから、伊東祐親がそこに預けられていて、この地で最期を迎えたというのは、あながち作り話とは言えないのかもしれません。

旗立山(軍見山)・伊藤祐親供養塚(撮影日:2015.03.17)
旗立山(軍見山)・伊藤祐親供養塚(撮影日:2015.03.17)
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鐙摺は頼朝のスキャンダルの舞台

伊東祐親の死に前後して、鐙摺ではもう一つ事件が起きていました。源頼朝の愛妾・亀の前大多和義久の館に逃げ込んでくるというスキャンダルです。

源頼朝亀の前を鎌倉にほど近い逗子の飯島にあった御家人の伏見広綱の館にかくまい、隠れて通っていました。しかし、これが妻の北条政子にバレてしまい、伏見邸を追い出された亀の前鐙摺大多和邸に逃げてきたのです。その後も、頼朝大多和邸に泊まっています。(亀の前事件
逗子の飯島にしても、葉山の鐙摺にしても、幕府周辺の目は避けられつつも、鎌倉からは舟ですぐのため、通いやすかったのでしょう。
現在もこのあたりは、葉山港葉山マリーナがあり、ヨットやクルーザーの港になっています。

旗立山(軍見山)より葉山マリーナを望む(撮影日:2015.03.17)
旗立山(軍見山)より葉山マリーナを望む(撮影日:2015.03.17)

政子に告げ口をしたのは政子の父・北条時政の後妻である牧の方で、政子の依頼を受けて伏見邸を取り壊して亀の前を追い出す、後妻打ちうわなりうちを行ったのは牧の方の兄(または父)・牧宗親です。頼朝に呼び出された宗親は罰を受けますが、これに怒った北条時政は一時伊豆の国に帰ってしまいました。これから本格的な平家討伐をはじめようとする直前の、1182年(寿永元年)のことです。

源頼朝が「人たらし(女たらし)」と評されるエピソードの一つです。

後妻打ちうわなりうちとは、先妻が後妻の家を襲う風習で、中世から江戸時代までは、半ば合法的に行われていました。

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鐙摺の地名の由来は頼朝が鐙を摺らしたことによる

現在はバス停にその名前に残すくらいの鐙摺は、鎌倉に幕府が開かれる前、さまざまな事件の舞台となっていました。

なお、「鐙摺」の地名の由来の一つに、源頼朝鐙摺城に登ろうとした際に、あまりに急坂であったため(あるいは道が狭かったため)、あぶみ(馬に騎乗するときに足を乗せる馬具)をってしまったためというエピソードがあります(諸説あります)。

現在は鐙摺切通しが開削されるなど道が整備されていますが、このあたりの陸路は難所でした。昔の逗子方面と三浦半島南部との往来は、海岸沿いを通るか、逗子の渚橋付近から田越川沿いに内陸へ入って行くルートが一般的だったようです。
古東海道と呼ばれる古代の京から房総方面に抜ける幹線も後者のルートとされていて、このルートに沿うように、鐙摺城跡の背後の山には、現存するものとしては神奈川県で最大の前方後円墳「長柄桜山古墳群」(2基)が残されています。

旗立山(軍見山)より富士山と江の島を望む(撮影日:2015.03.17)
旗立山(軍見山)より富士山と江の島を望む(撮影日:2015.03.17)
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鐙摺城跡・旗立山(軍見山)周辺の見どころ

DATA

住所 三浦郡葉山町堀内
アクセス
行き方

JR横須賀線・湘南新宿ライン「逗子駅」または京急逗子線「逗子・葉山駅」より京急バス「逗11、12系統(海岸回り)」に乗車して『鐙摺(あぶずり)』下車

駐車場 なし(近隣にコインパーキングあり)
料金

無料

電話番号 046-876-1111(葉山町 町役場)
※このページに掲載している内容は、予告なく変更となっている場合があることをご了承ください。

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