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ウィリアム・アダムス=三浦按針ゆかりの地 | 徳川家康の外交顧問として活躍した青い瞳のサムライ

ウィリアム・アダムス=三浦按針ゆかりの地 | 徳川家康の外交顧問として活躍した青い瞳のサムライ 歴史上の人物
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イギリス人(イングランド人)のウィリアム・アダムスは、オランダのロッテルダムから極東を目指して航海に出て、日本にたどり着きました。1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いの約半年前のことです。アダムスは当初、帰国を願い出たものの叶わず、当時の三浦郡逸見へみ(現在の横須賀市西逸見町周辺)に領地を与えられ、徳川家康の外交顧問として活躍していくことになります。また、アダムスは、家康や江戸幕府に砲術や造船術などの西洋文明や世界情勢も伝えたと言います。

徳川家康の信任を得て江戸幕府の旗本となったウィリアム・アダムスには、三浦按針みうら あんじんという日本名が与えられました。「三浦按針」とは、領地となった三浦半島にある「三浦」郡と、アダムスの職業であった水先案内人の意味を持つ「按針」を掛け合わせた名前です。

三浦按針は、自らの領地に近い三浦郡浦賀村(現在の横須賀市浦賀)で国際貿易をはじめるなど、三浦半島に大きな足跡を残しました。しかし、それも長くは続かず、主君であった徳川家康が死没すると、いわゆる鎖国政策に向かう江戸幕府に追い出されるように逸見の地を去り、最期は長崎・平戸で亡くなりました。

数奇な人生を送ることになったウィリアム・アダムス=三浦按針の後半生を、彼のゆかりの地を紹介しながらひも解いてみたいと思います。

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家康が国際貿易港の夢を三浦按針に託した浦賀湊

江戸城に入った徳川家康は、江戸湾(東京湾)の入口に位置する三浦半島を自らの直轄地として、浦賀で国際貿易をはじめようとします。この地で外国との交渉役として期待されたのが三浦按針で、浦賀にほど近い逸見に領地を与えられたのもそのためであったと考えられます。

日西墨比貿易港之碑(東叶神社)

この計画は三浦按針の手腕もあり、ともに当時スペイン領だったマニラ(現在のフィリピン)とメキシコの太平洋を横断する商船の寄港地としての誘致に成功するなど、一定の成果を見せることになりました。

しかし、1616年(元和2年)に徳川家康が死没すると、いわゆる鎖国政策によって外国との交易が長崎・平戸に限定され、浦賀の国際貿易港としての役割もわずか10年ほどで終焉することになりました。

幕末のペリー来航で知られる浦賀ですが、江戸初期に国際貿易港とする構想があった歴史はあまり知られていません。このような史実を周知する目的で、2019年、浦賀湾に面した東叶神社の境内に、地元住民でつくる市民団体「浦賀湊を世界文化遺産にする会」によって「日西墨比貿易港之碑」が建立されました。※西:スペイン、墨:メキシコ、比:フィリピン

●住所
横須賀市東浦賀2-21-25

●駐車場
あり

●公共交通機関
浦賀駅からバス利用の場合
京急線「浦賀駅」より京急バス「観音崎」行き、または「かもめ団地」行きで『新町』下車、徒歩約7分
浦賀駅から徒歩の場合
京急線「浦賀駅」より徒歩約20分
西叶神社から浦賀の渡し(渡船)利用の場合
徒歩と西渡船場から東渡船場の航路で約10分(渡船の待ち時間含まず)

東叶神社・日西墨比貿易港之碑(撮影日:2022.12.23)
東叶神社・日西墨比貿易港之碑

浦賀の按針屋敷跡(東林寺周辺)

東叶神社からもほど近い、東林寺からその南側に建つ法幢寺までの裏道沿いを、「按針屋敷あんじんやしき」と呼ぶ言い伝えがあります。

按針屋敷の詳しい場所などは特定されていませんが、その名前のとおり三浦按針の屋敷があったとも、按針が勧請した社があったとも言われています。
浦賀には、少なくとも按針が仕事をする場所はあったと考えられます。住まいとしての屋敷は、所領であった逸見にもあったと伝えられていますが、逸見浦賀は8kmほど離れていますので、毎日通勤していたと考えるよりも、浦賀にも拠点となる屋敷があったと考えるのが自然でしょう。按針が勧請した社というのも、文字通り日本式の神社だった可能性もありますが、キリスト教の教会だったとも考えられます。

●住所
横須賀市東浦賀2-10-13

●駐車場
あり

●公共交通機関
浦賀駅からバス利用の場合
京急線「浦賀駅」より京急バス「観音崎」行き、または「かもめ団地」行きで『新町』下車、徒歩約4分
浦賀駅から徒歩の場合
京急線「浦賀駅」より徒歩約15分

東林寺(撮影日:2022.02.09)
東林寺
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日本の歴史上唯一外国人が領主となって治めた逸見

逸見は、日本の歴史上唯一外国人が領主となって治めた土地です。徳川家康の信任を得た三浦按針は、日本人の妻との間に子どもも授かり、この地を拠点に旗本として活躍しました。
逸見には、屋敷跡や菩提寺、夫妻の墓(供養塔)といった、三浦按針ゆかりの場所が多く伝わっています。

マップは、スマートフォンやタブレットでは二本指で操作できます。

逸見の按針屋敷跡(鹿島神社周辺)

京急線逸見駅の近くにある鹿島神社は、旧逸見村の鎮守です。かつては、鹿島崎と呼ばれる、現在の海上自衛隊横須賀地方総監部がある辺りに鎮座していましたが、1895年(明治28年)に現在地に社殿を造営して遷座しました。

江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、三浦按針浄土寺の南に屋敷を構えていたと言い、それは現在ちょうど鹿島神社が鎮座する辺りにあたります。

江戸時代前期の1636年(寛永13年)には、三浦按針の子が当時はまだ鹿島崎にあった鹿島神社の社殿を再建したという記録も伝わっています。

三浦按針の時代のものではありませんが、現在見られる鹿島神社社殿の彫刻は、浦賀西叶神社社殿の彫刻を手掛けた後藤義光の門人である、後藤喜三郎によるものです。按針と同様、浦賀にも縁があるというのが興味深いところです。

●住所
横須賀市西逸見町2-70

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急線「逸見駅」より徒歩約5分、またはJR横須賀線「横須賀駅」より徒歩約10分

鹿島神社(撮影日:2020.12.04)
鹿島神社

三浦按針の屋敷は、逸見浦賀の他に、江戸城下の中心地である東京・日本橋室町にもありました。江戸の按針屋敷があった地域は、昭和初期までは「按針町」という町名でした。現在は地名としては見られなくなりましたが、その名残は「按針通り」という通り名に残っています。

三浦按針の菩提寺・浄土寺

鹿島神社の隣りにある浄土寺は、三浦按針の菩提寺です。そのため、三浦按針の念持仏と伝わる銅造観音菩薩立像や、按針が朱印船貿易で東南アジアから持ち帰ったと伝えられる貝葉経ばいようきょう(紙のない時代に植物の葉に刻まれた経文)など、按針ゆかりの品が伝わっています。

プロテスタントを信仰していたイギリス人(イングランド人)の三浦按針は、日本に来た当初、すでに日本で布教活動をしていたカトリックのイエズス会の宣教師たちに弾圧されることになりましたが、家康がこれを取り合わなかったため、按針に直接被害が及ぶことはありませんでした。

三浦按針は、逸見に所領を与えられた後も、キリスト教の信仰を完全にやめたわけではなかったようです。徳川家康による禁教政策の影響もあったのかもしれませんが、念持仏として観音像を持ち歩いていたという逸話も残っているように、日本の宗教を拒否することもせず、仏教にも接し、地域や日本という国に溶け込もうと努力したのではないでしょうか。

●住所
横須賀市西逸見町1-11

●駐車場
あり

●公共交通機関
京急線「逸見駅」より徒歩約5分、またはJR横須賀線「横須賀駅」より徒歩約10分

浄土寺・どこか西洋風な門構え(撮影日:2023.08.04)
浄土寺

塚山公園・三浦按針墓(安針塚)

浄土寺鹿島神社などがある京急線逸見駅周辺から、山側に20分ほど坂道を登って行くと、三浦按針夫妻の墓(国指定史跡)と伝わる宝筺印塔が建っています。右側の凝灰岩製の塔が按針、左側の安山岩製の塔が按針の妻のものです。

徳川家康の外交顧問として活躍した三浦按針でしたが、家康が死没すると、江戸幕府はいわゆる鎖国政策へと向かい、後ろ盾を失った按針は長崎・平戸で亡くなりました。
この逸見にある墓には按針が埋葬されているわけではなく、供養塔として建てられたものになります。
この地で供養されているのは、按針の領地であった逸見の地にあることと、江戸を一望できる場所に葬ってほしいという本人の遺言によるものであると伝えられています。

三浦按針夫妻の墓は「按針塚」または「安針塚」とも呼ばれ、この場所のもう一つの最寄り駅である京急線安針塚駅の名称の由来にもなっています。(開設当初の名称は、軍需部前駅
また、三浦按針夫妻の墓の周辺は、神奈川県立塚山公園として整備されていて、三浦半島でも有数の桜の名所になっています。塚山公園では、按針の功績をたたえるために、毎年4月上旬に「三浦按針祭観桜会」が開かれています。

●住所
横須賀市西逸見町・山中町・長浦町

●駐車場
なし

●公共交通機関
京急線「安針塚駅」より徒歩約20分、または、京急線「逸見駅」より徒歩約25分

県立塚山公園・三浦按針墓(撮影日:2016.4.11)
県立塚山公園・三浦按針墓
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大正時代には外国人の観光地となった安針塚への道標

明治時代に入ると、三浦按針が再び脚光を浴びるようになります。按針も活躍した浦賀へのペリー来航をきっかけに日本が開国すると、横浜の居留地に住むイギリス人の間で、日本に最初に来たイギリス人探しがはじまりました。

1872年(明治5年)、横浜で貿易商を営むジェームス・ウォルタース三浦按針の菩提寺浄土寺の所在をつき止めて、三浦按針夫妻の墓「安針塚」の修復を計画しました。この動きは地元の名士の間に広まり、最終的には神奈川県知事や政府高官、イギリス大使らの賛同を得て、明治後期から大正にかけて、史跡として整備されました。

1921年(大正10年)には、現在のJR横須賀線の横須賀駅前や京急線逸見駅近くの安針塚登り口などに、「安針塚への道標」が建てられました。
この「安針塚への道標」には日本語表記の他に英語で「WILLIAM ADAMS TOMB ○M(マイル)」と刻まれていて、大正時代には外国人の巡礼地あるいは観光地だったことが分かります。

現在の塚山公園の最寄り駅は京急線の安針塚駅逸見駅ですが、どちらの駅も昭和に入ってから開業した駅のため、大正時代は国鉄横須賀駅(現在のJR横須賀駅)が最寄り駅でした。
もちろん、今でもこの道標をたどって行けば塚山公園に着きますので、逸見周辺の三浦按針ゆかりの地をめぐる際は、JR横須賀駅から「安針塚への道標」を探しながら散策するのもおすすめです。

安針塚への道標・JR横須賀駅前

●住所
横須賀市東逸見町1丁目
※JR横須賀駅駅前(線路沿い)

●駐車場
なし

●公共交通機関
JR横須賀線「横須賀駅」より徒歩約0分

安針塚への道標・JR横須賀駅前(撮影日:2021.12.10)
安針塚への道標・JR横須賀駅前

安針塚への道標・国道16号「汀橋交差点」

●住所
横須賀市西逸見町1丁目
※国道16号「汀橋交差点」のウェルシティの反対側

●駐車場
あり

●公共交通機関
京急線「逸見駅」より徒歩約6分、またはJR横須賀線「横須賀駅」より徒歩約7分

安針塚への道標・国道16号「汀橋交差点」近く(撮影日:2023.08.04)
安針塚への道標・国道16号「汀橋交差点」近く

安針塚への道標・京急線逸見駅からの安針塚登り口

●住所
横須賀市西逸見町3丁目
※西逸見吉倉隧道の西逸見町側出入口近く

●駐車場
あり

●公共交通機関
京急線「逸見駅」より徒歩約10分、またはJR横須賀線「横須賀駅」より徒歩約15分

安針塚への道標・京急線逸見駅からの安針塚登り口(撮影日:2020.12.04)
安針塚への道標・京急線逸見駅からの安針塚登り口
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