安房口神社は、三浦半島で最古の神社とされる(諸説あり)、吉井の鎮守です。明神山の山頂にあります。山と言いましても現在は周囲の開発が進み、「湘南山手」と呼ばれる平成期に開発された広大な住宅地の真ん中に、安房口神社の鎮守の杜だけがわずかにポツンと残されています。
マテバシイに囲まれた鎮守の杜に入ると、ひんやりとした空気に包みこまれて、一瞬で、住宅街から聖域に立ち入ったことを肌で感じることになります。
主祭神 | 天太玉命 |
旧社格等 | - |
創建 | 不詳 |
祭礼 | 3月中旬 祈年祭「春祭り」 8月中旬 例大祭「神幸祭」 11月中旬 新嘗祭「秋祭り」 |
安房口神社は社殿を持たず、霊石を御神体とする、古代から続く原始的な神道の姿を留めた神社です。また、地元の三浦一族をはじめ、北条政子、源頼朝、北条義時ら鎌倉時代の武将やその家族も参拝に訪れたと伝わるなど、中世にはもう必勝祈願や安産祈願などのパワースポットとして知られた神社でした。
INDEX
社殿を持たない三浦半島最古の神社
安房口神社は社殿を持たない、現代ではめずらしい神社です。安房口神社の御神体は、大きな安房石の霊石です。これは、磐座信仰と言われる、日本で古くから根付いていた自然崇拝(アニミズム)の一種で、巨岩を神が宿る場所として仰ぐ原始的な神道の形式を保った場所なのです。
この霊石は、安房国の洲崎明神(現在の房総半島南部、千葉県館山市に鎮座する洲崎神社)に竜宮から奉納された2つの石の一つとされ、洲崎明神の御祭神である天太玉命の霊代として東国鎮護のために安房国より海を越えて三浦半島の明神山山頂に飛来してきたと伝えられています。もう一つの霊石は、現在も洲崎神社に「神石」として鎮座しています。
安房国に向けて口を開けた御神体
安房口神社の御神体の霊石には、直径40cmほどの穴が開いていて、安房国の方角を向いています。このため、「安房口大明神」(明治に入り安房口神社と改名)と呼ばれるようになったとされています。
また、明治末まではこの霊石とは別に「陽石」も祀られていて、現在の霊石である「陰石」とあわせて、安産祈願の神様としても信仰されていました。
鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)・源頼朝の妻・北条政子が懐妊した際に、安産祈願のために安房口神社へ参拝に訪れたとも伝えられています。
安房国と結ばれていた古東海道
安房口神社が鎮座する湘南山手(横須賀市吉井と同市池田町)は、京急本線の馬堀海岸駅、京急久里浜線の新大津駅、北久里浜駅の3駅のちょうど真ん中に位置していますが、どの駅からも離れているため、京急線沿線の中では開発が遅れ、昭和後期までは広大な自然が残る地域でした。バスの便は京急久里浜駅から出ています。
湘南山手の宅地開発がされる前の安房口神社は、古東海道(律令時代の畿内から常陸国に至る官道で、相模国と上総国の間は、鎌倉、逗子、葉山から三浦半島を東西に横断して、走水付近より海路で房総半島に渡るというルートだったと考えられています)の山すじ上にあったとされていて(諸説あり)、街道としても安房国に通じていました。
平安時代末期、石橋山での挙兵に敗れた源頼朝らが渡った安房国で現地の案内役を務めた三浦義澄ら三浦一族も安房にはゆかりが深く、航海の神様として安房口神社を信仰していたとされています。また、源頼朝や北条義時らも、必勝祈願に参拝したとも伝えられています。
このように、かつては街道沿いにあり人の往来もあった安房口神社周辺でしたが、古東海道が廃れて、人の流れも変わると、忘れ去られた存在になっていったことでしょう。地元の吉井の里人以外からは。
安房口神社に古代からの信仰の形が残されたのは、宅地化が遅れたのと同時に、吉井の住民が大切に歴史を受け継いできたからにほかなりません。
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