法性寺は、逗子と鎌倉の境に位置する名越切通の、逗子側の入口の一つに位置する、日蓮宗の寺院です。
法性寺には、日蓮聖人が草庵を焼き討ちに遭った松葉ヶ谷法難で白猿の導きによって逃れたとされる岩窟が残っています。このとき日蓮を救った白猿は、今もこの地に鎮座する山王様の御使いだとされています。
この岩窟の前には、日蓮の本弟子6人の一人・日朗上人の墓所があります。
山号 | 猿畠山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 一塔両尊 |
創建 | 1320年(元応2年) |
開山 | 日朗 |
開基 | 朗慶 |
法性寺の「猿畠山」というユニークな山号は、日蓮をこの地に導いて救った白猿に由来します。「おさるばたけ」の愛称で親しまれている法性寺には、猿をモチーフにした石仏や扁額などもあります。
INDEX
松葉ヶ谷法難で日蓮が逃れた岩窟
1253年(建長5年)に鎌倉入りした日蓮は、現在法性寺の建つ場所と名越切通を挟んだ反対側にあたる松葉ヶ谷に草庵を構えて布教活動をはじめました。
1260年(文応元年)、日蓮は自身を代表する著書となる「立正安国論」を書きあげると、時の権力者、鎌倉幕府第5代執権(前執権)・北条時頼に提出しました。しかし、この「立正安国論」の中で念仏批判をされた念仏者たちから怒りを買い、日蓮は草庵を焼き討ちに遭いました。
この際、日蓮が白猿に導かれて難を逃れたとされる場所が、法性寺の奥の院に今も残る岩窟だとされています。(松葉ヶ谷にある安国論寺には、安国論寺の裏山中腹にある南面窟と呼ばれている岩窟で一夜を明かした後、尾根沿いに逗子方面へ進み、法性寺に逃れたという言い伝えもあります)
日蓮を救った山王大権現の白猿
日蓮を助けた白い猿は、法性寺の奥の院からさらに登った先にある山王様の御使いだとされています。このことから、この山王大権現には災難除けのご守護があるとされています。
切り立った山の頂上にある山王大権現には、祠や五重塔が祀られていて、その手前からは逗子のまちを一望できます。
(松葉ヶ谷にある妙法寺には、松葉ヶ谷法難を逃れた日蓮が山王権現の祠にたどり着いたという逸話が伝わっています)
山王大権現がある山の裏側に広がる、かつての鎌倉石の採石場跡は「お猿畠の大切岸」と呼ばれていますが、この名前の由来は、法性寺に伝わる日蓮と白猿のエピソードに由来します。
法性寺の山門に見られる白い猿のモチーフ
白い猿のモチーフは、法性寺の山門でも見られます。法性寺の山門にかけられた「猿畠山」という山号が書かれた扁額は、白猿によって支えられています。
この山門は、逗子から鎌倉へ抜ける名越切通への入口の一つにもなっています。(開門7:00~閉門18:00)
名越切通には、鎌倉・逗子最大規模のやぐら(主に中世に造られた横穴式の墳墓または供養の場)の集積地である、まんだら堂やぐら群(季節限定公開)があります。
まんだら堂やぐら群の詳細は謎に包まれたままですが、名越切通の周辺には、逗子側に法性寺が、鎌倉側には安国論寺や妙法寺、長勝寺などの、日蓮ゆかりの寺院が点在していることから、これらの宗教施設だった可能性も考えられます。
日蓮の本弟子6人の一人・日朗の墓所
法性寺の奥の院には、日蓮の本弟子6人の一人・日朗の墓所があります。若き日を日蓮とともに松葉ヶ谷で過ごした日朗は、遺言により、出家得度した安国論寺で荼毘に付されて、日蓮を救った山王様が祀られていて日蓮が法難を逃れたこの地に葬られました。
法性寺は、この日朗のお墓を護るために創建されました。
妙本寺と池上本門寺両山の奥之院
日蓮が亡くなると、日朗は日蓮が鎌倉の比企谷に開いた妙本寺を受け継ぎ、鎌倉での拠点にしました。また、同じく日蓮が開いた池上本門寺も受け継ぎ、日朗は池上本門寺の基礎を築きました。
日朗の時代以降も、戦前の1941年(昭和16年)まで、妙本寺と池上本門寺は一人の住職が両山を統括する「両山一首制」が続きました。
法性寺・奥の院の祖師堂には、この日蓮宗の中でもとくに歴史ある妙本寺(日蓮宗旧霊跡本山)と池上本門寺(日蓮宗大本山)二つの住職を務めた日朗のお墓があるという意味で、「両山奥之院」と書かれた扁額がかけられています。
法性寺境内で見られる花
法性寺境内では、初夏に藤の花やあじさいが多く見られます。例年、藤の花はゴールデンウィークごろ、あじさいは6月が見ごろです。