東林寺は、東浦賀(旧浦賀洲崎町)の高台に建つ寺院です。墓地には、幕末のペリー来航当時に江戸幕府の浦賀奉行所与力だった中島三郎助と、その子ら一族が眠っています。中島三郎助は最後まで幕府に忠誠を尽くし、長男・次男とともに、戊辰戦争で戦死しました。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、戦国時代の1523年(大永3年)に、もともと2つに分かれていた寺を1つの寺に合併して、現在の東林寺ができたと伝わります。このため、合併した時の僧である良道を開山とみなすむきがある一方、唱阿を開山とするという言い伝えもあります。
山号 | 浦賀山 |
宗派 | 浄土宗鎮西派 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1523年(大永3年) |
開山 | 良道または唱阿 |
開基 | 不詳 |
東林寺近くにあった「按針屋敷」
合併によって東林寺が誕生した戦国時代中期は、三浦半島を支配していた相模三浦氏が小田原を拠点とする後北条氏に滅ぼされた後の時代で、対岸の房総半島の里見氏に対抗するため、浦賀は後北条氏によって水軍の基地になっていたと考えられています。東林寺の裏山にあたる明神山も、浦賀城と呼ばれる山城として使われていたとされています。
浦賀城の浦賀湾側のふもとにあたる、東林寺からその南側に建つ法幢寺までの裏道沿いを、「按針屋敷」と呼ぶ言い伝えがあります。「按針」とは、江戸幕府成立前後に徳川家康の外交顧問として活躍したイギリス人(イングランド人)・三浦按針(ウィリアム・アダムス)のことです。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が衰退すると、今度は、三浦半島は徳川家康の所領になりました。三浦按針は家康から、浦賀を国際貿易港とする任務を与えられていたと考えられています。
「按針屋敷」と呼ばれる辺りには、その名前のとおり三浦按針の屋敷があったとも、按針が勧請した社があったとも言われていますが、詳しいことは分かっていません。浦賀には、少なくとも按針が仕事をする場所はあったと考えられますが、住まいとしての屋敷は所領であった逸見(浦賀と同じ現在の横須賀市内)にもあったと伝えられています。按針が勧請した社というのも、文字通り日本式の神社だった可能性もありますが、キリスト教の教会だったとも考えられます。
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浦賀の名士・中島三郎助一族の墓
東林寺に墓のある中島三郎助は、ペリー来航当時に浦賀奉行所与力だった人物です。(浦賀奉行所の与力とは、トップである浦賀奉行を補佐する役職です)
当時の列強各国による植民地化から日本を守った「影の立役者」として、知る人ぞ知る存在のように語られることが多い中島三郎助ですが、少し見方を変えれば、幕末と言う激動の時代をはじめから最後まで駆け抜けた、まさに「主人公」のような存在でもありました。
1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船艦隊が浦賀沖に現われると、中島三郎助は浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道の2人に代わり通訳とともに黒船に乗船して、アメリカ側との交渉を担当しました。
この際、中島三郎助は自分を本来より高い身分である「副奉行」と偽ることで幕府高官との対話を望むアメリカ側を交渉のテーブルにつかせ、混乱する浦賀奉行所や江戸幕府に代わって迅速な一次対応をとって見せたとされています。
中島三郎助は、ペリーより前に浦賀に現われていた、アメリカの商船「モリソン号」(モリソン号事件、1837年)やビッドル(ビドル)率いる2隻のアメリカ海軍の軍艦(ビッドル来航、1846年)を見てきていたため、その教訓や対応力を身に付けていたのでしょう。
モリソン号事件:対話をすることなく、砲撃によって日本人漂流民を乗せた船を一方的に追い払った事件。
ビッドル来航:日本の開国を求めて来航したアメリカ東インド艦隊・ビッドルを、日本側が強気な態度で臨み、ゼロ回答で追い返すことに成功した出来事。このときの艦隊には、まだ蒸気船は含まれていませんでした。
ペリー来航直後に、日本で建造された最初の西洋式軍艦となる「鳳凰丸」を浦賀奉行所によってわずか8か月という短期間で完成させることができたのも、ペリーが乗ってきた蒸気船(いわゆる黒船)やペリーによる高圧的な砲艦外交を目のあたりにして、それ以前の外国船による来航とは違うレベルの危機感を感じとっていた中島三郎助の陣頭指揮によるものなのかもしれません。
当時は蒸気船が急速に普及していった時代のため、帆船であった「鳳凰丸」の軍艦としての実力は大きなものとは言えなかったようですが、「鳳凰丸」を建造した浦賀造船所は、後に太平洋横断に成功することになる「咸臨丸」の整備を担当するなど、造船技術が未熟な開国前後の日本にあって、重要な役割を果たすことになりました。
中島三郎助は、王政復古後の1868年(慶応4年)に勃発した戊辰戦争では、それまでの忠義を貫いて旧幕府軍側につきました。翌1869年(明治2年)、北海道・函館の五稜郭近郊・千代ヶ岱陣屋での戦いで、長男・次男とともに戦死しました。中島三郎助が率いていたこの千代ヶ岱陣屋での戦いが、戊辰戦争での最後の戦闘となりました。この直後、旧幕府軍は新政府軍に降伏して、戊辰戦争は終結することになります。
後年、中島三郎助の二十三回忌にあたって、彼の功績と名誉を浦賀に末永く残すことを目的に、浦賀湾を見下ろす山の上に中島三郎助招魂碑が建立されました。中島三郎助招魂碑周辺は、現在も愛宕山公園として、浦賀の人々に親しまれています。