海南神社は、三崎港の近くに鎮座する三浦半島(相模国三浦郡)の総鎮守です。
古くから漁業で栄えた三崎という土地柄、境内社で食の神様を祀っていたり、包丁を供養するお祭りが行わるのが特徴です。
また、平安時代から鎌倉時代にかけて三浦半島で活躍した三浦一族や、源頼朝とのゆかりが深い神社として、数々の逸話が残っています。
主祭神 | 藤原資盈 盈渡姫 地主大神 |
旧社格等 | 旧郷社 |
創建 | 982年(天元5年) |
毎年1月15日に行われるお正月の伝統行事「チャッキラコ」は、ユネスコの無形文化遺産や重要無形民俗文化財に登録されています。小学生くらいまでの晴れ着姿の少女たちが、家内安全・商売繁盛・大漁祈願などの願いを込めて、踊りを奉納します。
江戸時代にはじまった祝いの踊りが起源とされていますが、三崎に来遊した源頼朝の望みにより、少女たちが即興的に踊ったのがはじまりとする説もあります。
INDEX
三浦半島の総鎮守
864年(貞観6年)、清和源氏の祖でもある清和天皇の時代、御祭神である藤原資盈は皇位継承争いに絡んで左遷となり任地の筑紫に向かう航海の途中、暴風に遭い、三崎に漂着しました。
藤原資盈は、房総の海賊を平定して、三崎の民に漁業をはじめとした教養や文化を教え、人々から崇敬されました。866年(貞観8年)に資盈が没すると、現在、海南神社が鎮座する場所からほど近い花暮海岸に祠を建立して祀りました。
982年(天元5年)には現在の場所に社殿を造営して、三浦郡の総社となりました。
その後、1719年(享保4年)には三浦半島の総鎮守に、1873年(明治6年)には郷社になりました。
三浦一族や源頼朝にまつわる逸話
平安時代末期に源頼朝が挙兵した際、時の三浦一族当主の三浦大介義明は、氏神であった海南神社で源平のどちらが勝つか「神事狐合」で占いました。白と赤の狐を闘わせて白い狐が勝ったので、三浦義明とその一族は頼朝に味方したと伝わっています。
鎌倉幕府を創設した後、有力御家人となった三浦氏の所領である三崎や城ヶ島の地に、源頼朝は何度も来遊しました。
海南神社の境内には、頼朝が植えたと伝わる御神木となっている大銀杏が、雄株と雌株の2本あります。雄株は龍神社にかかる枝が龍神様の形をしていると言われていて、雌株は枝が垂れていて乳房のような形をしていると言われています。
雌株の下には、子宝・安産・良縁の石である「子産石」が安置されています。軽く触れることで願いが叶うとされています。
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食の神様・磐鹿六雁命を祀る神社
海南神社はまた、食の神様を祀る神社としても親しまれています。例年4月には、「食の神フェスティバル」が開催されています。
境内社の相州海南高家神社は料理の神様・磐鹿六雁命を祀っています。磐鹿六雁命は、景行天皇が日本武尊の東国征討の跡を追って三浦半島から安房上総に巡行された際に、天皇の料理賄方だった料理人です。境内に掲げられている磐鹿六雁命の大絵馬が目をひきます。この大絵馬は、旧一万円札の聖徳太子の肖像画などで有名な、馬堀法眼喜孝画伯によるものです。
また、海南神社には、使い古された包丁に労わりの心をこめて納める包丁奉納殿や、包丁への感謝と人の食膳に供された鳥獣魚菜の霊をなぐさめる包丁塚などもあり、料理人からの信仰も集めています。