貝山緑地は、追浜の海岸近くにわずかに残る丘陵地を利用した緑地公園です。園内には約1,000本の杏(アンズ)の木が植えられている、神奈川県有数の杏の名所です。頂上の展望台は、東京湾や追浜工業団地周辺を一望できる、穴場のビュースポットでもあります。
また、地下には、旧日本海軍が海軍施設の避難や防衛のために建設した貝山地下壕(見学は事前申込制のガイドツアーのみ)が残っています。
貝山緑地の隣接地には、ドッグラン広場や東京湾第三海堡から移設された構造物のある夏島都市緑地やリサイクルプラザ「アイクル」などの、横須賀市の公共施設があります。
戦前・戦中、貝山緑地の周辺一帯は、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場や航空関連施設、教育機関などが置かれる、日本海軍における航空部隊の一大拠点でした。戦後、これらの敷地の多くは、日産自動車追浜工場をはじめとした工業地帯に転用されました。
日本海軍の航空発祥の地でもある追浜から、横須賀海軍航空隊が置かれていた痕跡の多くが消えていく中、貝山緑地はその栄枯盛衰を見守ってきた歴史の証人であり、また、この地から巣立った戦没者・殉職者たちの鎮魂の場でもあります。

INDEX
貝山緑地前に広がっていた追浜海岸は海軍航空発祥の地
今でこそ、京急線・追浜駅周辺の市街地を核とした横須賀市北部地域のことを「追浜エリア」と呼びますが、この地に日本海軍が来る前までの追浜は、旧浦郷村内のごく狭い地区を示す地名でしかありませんでした。
その場所こそ、貝山緑地のすぐ北側に、南北に延びていた追浜海岸です。埋め立てによりその面影はありませんが、海岸のすぐ先には烏帽子島が、沖合には夏島が浮かぶ、風光明媚な場所だったと伝えられています。
この追浜海岸周辺に、横須賀海軍航空隊の前身である海軍航空術研究委員会が、明治後期から大正初期にかけて、航空術研究所や航空機の格納庫、滑走台、工場などを整備したのが、追浜飛行場のはじまりです。当時は水上飛行機が主力でしたので、横須賀軍港から近く、まだ開発されていない海岸線が残っていた追浜は、最適な場所だったのでしょう。追浜海岸より横須賀軍港に近い田浦や長浦の海岸線は、軍港の拡張にともない、より早い時期に他の海軍施設が置かれるようになっていました。また、田浦や長浦の海岸線はすぐ近くまで山が迫っていて、港湾も狭く複雑な地形で、飛行場に適した土地ではありませんでした。
1912年(大正元年)には、アメリカから購入したカーチス式水上機を使用して、追浜飛行場で初めての飛行に成功しています。これは、日本海軍にとっての初飛行でもありました。(これより前に、日本陸軍では航空機の飛行に成功しています。当時の海軍と陸軍はお互いに競い合うような関係性もあり、それぞれ独立して航空機の研究を進めていました)
貝山緑地中腹の広場にある海軍航空発祥之地碑は、この出来事を記念して建てられたものです。
当初は最古の飛行機格納庫跡に建立されましたが、その後、土地所有者の変更など紆余曲折があり、戦後50年の1995年に、追浜飛行場跡を見下ろす丘にある貝山緑地に移設されました。

追浜飛行場に集った海軍航空技術廠工場や海軍飛行予科練習生
「追浜」という地名の由来には諸説ありますが、その一つに、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将で、源頼朝の異母弟である源範頼が失脚した際、追手から逃れてきて上陸した浜だったことから名づけられたとする説があります。かつては、その際、範頼を匿ったとされる岩窟が貝山緑地の近くに残っていましたが、周辺の開発によって現存していません。
また、源範頼の菩提寺である太寧寺も瀬ヶ崎(現在の関東学院大学付属小学校付近)にありましたが、追浜飛行場の拡張にともない、範頼の墓とともに、移転を余儀なくされました。
1916年(大正5年)、海軍航空術研究委員会は横須賀海軍飛行隊となり、陸上飛行場の建設がはじまるなど、追浜飛行場は夏島や野島といった沖合方面を埋め立てるかたちで拡張していきました。
それと同時に、陸上でも横須賀海軍飛行隊の関連施設の建設が進みました。追浜飛行場南側の深浦湾北岸には海軍航空技術廠工場やその本庁舎が、追浜飛行場西側の六浦や釜利谷には海軍航空技術廠支廠(戦後、跡地に東急車輛を開設。現在の総合車両製作所(J-TREC))が建設されるなど、昭和前期までに、追浜飛行場周辺は航空機関連の研究開発施設や工場の一大集積地になっていきました。
横須賀海軍飛行隊では、追浜飛行場の建設・拡張と並行して、航空兵の養成にも力を入れていきました。
1929年(昭和4年)には海軍飛行予科練習生(予科練)の制度が設けられ、翌1930年(昭和5年)に第一期生が入隊しました。1937年(昭和12年)には、幹部育成のための甲種飛行予科練習生(甲飛)の制度も設けられています。
1939年(昭和14年)に霞ヶ浦海軍航空隊へ移転するまで、10年近くに渡り、追浜飛行場は日本海軍の航空兵養成の中心的存在を担いました。
貝山緑地には、1981年(昭和56年)、予科練習生の生存者によって予科練誕生之地碑が建立されました。

横須賀海軍飛行隊の殉職者を祀る追浜神社があった鎮魂の丘

航空機の研究開発や養成の黎明期には、不慮の事故がとくに多くありました。また、第二次世界大戦がはじまると、予科練の卒業生をはじめとした横須賀海軍飛行隊関係者の多くが戦場の最前線に送り出され、命を落としました。戦局が悪化した戦争末期には、特攻隊として飛び立つ者もいました。
貝山緑地は、このような戦没者・殉職者たちの鎮魂の場でもあります。
戦前の昭和前期には、横須賀海軍飛行隊の殉職者を祀る追浜神社が建立されました。追浜神社は現存していませんが、その跡地にあたる貝山緑地に石碑だけ残されています。
1997年には、甲種飛行予科練習生の生存者や遺族などによって、甲種飛行予科練習生鎮魂之碑が建立されました。
この他、横須賀中心部にあたる深田台の龍本寺(米ヶ浜のお祖師)にも、戦前に建立された横須賀海軍航空隊・殉職将士追悼碑が残されています。

追浜飛行場跡を示すモニュメントのような展望台

貝山緑地の頂上にある展望台からは、横須賀海軍飛行隊の人々も毎日見ていたであろう、追浜沖の風景を一望できます。工業地帯に囲まれた貝山緑地やその周辺は観光地化されていないため、東京湾眺望スポットの穴場的な存在です。
展望台自体、航空機の垂直尾翼をモチーフにしたような特徴的なデザインで、追浜飛行場跡を示すモニュメントのようでもあります。


貝山緑地は神奈川県有数の杏の名所

貝山緑地の園内には、約1,000本の杏(アンズ)の木が植えられていて、「杏の里」としても親しまれています。アンズの花は、だいたいソメイヨシノと同じころに開花します。杏自体がそれほどなじみのある花ではないこともあり、梅や桜の名所と比べて目立たない存在ですが、貝山緑地は横須賀や三浦半島はもとより、神奈川県でも有数の杏の名所です。
貝山緑地の杏は、貝山緑地を杏の里にしようと、追浜観光協会や市民の有志によって、2004年より植樹が進められてきたものです。
この他にも貝山緑地では、いろいろな種類の桜の花も見られ、春にはお花見の隠れスポットとしてもたのしめます。




貝山緑地周辺の見どころ




