長柄の御霊神社は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した武将・長江太郎義景が、郷の平和と発展を願い、その鎮護として御霊神社を勧請したと伝えられています。
鎌倉や三浦半島に分布する御霊神社の多くは、平安時代中期に活躍した武将・村岡五郎良文(平良文)が京都の御霊神社を勧請して創建した藤沢・宮前の御霊神社から分霊・分社したものであるとされています。宮前の御霊神社には、長江義景の祖父にあたる鎌倉権五郎景政も御祭神として祀られていることから、武勇が名高く、景政の近親者でもあった長江義景にとって、もっとも身近な信仰の対象だったのでしょう。
主祭神 | 大己貴命 御霊命 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1177年~1181年(治承年間) |
祭礼 | 1月7日 御奉射祭 春分の日(3月20日または21日) 祈年祭 8月第4土曜日・翌日曜日 例大祭 11月23日(勤労感謝の日) 新嘗祭 ※実際の日にちは年によって異なる場合があります |
弓の達人・長江義景の武勇にあやかる伝統行事「御奉射祭」
長江義景は、平安時代に鎌倉(相模国鎌倉郡)を領していた鎌倉氏の子孫ですが、三浦半島で大きな勢力となっていた三浦一族の当主・三浦義明の娘を正室にもらうなど三浦氏と婚姻関係を持ち、長江(現在の葉山町長柄)に館を構えるようになりました。
鎌倉氏も三浦氏も、藤沢・宮前に御霊神社を勧請した村岡良文の子孫とされていることから、もともと血縁関係にはありました。地域での地盤をより強固なものにするために、血縁関係にある氏族間での婚姻が積極的に進められ、協力関係を築いていたものと考えられます。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮の放生会がはじめて行われた際に奉納された流鏑馬で、長江義景は1番射手を務めています。
長柄御霊神社で毎年1月7日に執り行われている「御奉射祭」は、このような逸話が残り、弓の達人として知られていた長江義景に由来する神事です。長江義景の武勇にあやかり、その年に氏子中で満6歳になる男児の勧学や剛健に育つことを祈請して、それぞれが境内射場で矢を的に射当てるというお祭りで、県内はもとより、全国的にもめずらしい行事だと言います。
長柄御霊神社の見どころ
鳥居
長柄御霊神社の二の鳥居は安山岩製の明神鳥居で、1789年(寛政元年)に、西浦賀の西叶神社を別当寺として管理していた感応院西栄寺(廃寺)により奉納されたものです。
社殿
現在の長柄御霊神社の社殿は、大正天皇御即位の大礼を記念して、1917年(大正6年)に再建されたものです。1976年(昭和51年)には拝殿の一部が増築されています。
忠烈塔
長柄御霊神社の社殿の下には、砲弾型の忠烈塔が安置されています。この忠烈塔は、日露戦争25周年を記念して1931年(昭和6年)に建立されたものです。
題字の「忠烈」は、連合艦隊の旗艦「三笠」に乗艦して、日本海海戦でロシア海軍のバルチック艦隊と戦い歴史的勝利を収め、日露戦争で日本の勝利を決定づけた東郷平八郎元帥の真筆です。