大江広元は、鎌倉幕府の政所の初代別当(長官)として源頼朝を支えた側近の一人です。頼朝の死後は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家を支えるために発足した「十三人の合議制」の一人に選ばれ、北条氏の執権政治でも中心メンバーとして活躍しました。
大江広元の墓と伝わる五層の石塔は、鎌倉の自身の屋敷跡からほど近い、明王院の裏山に建っています。
INDEX
鎌倉幕府創設のキーマンの一人
大江広元の父や母などの出自については、詳細は分かっていません。鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」などでは、晩年になるまでは「中原広元」(実際には旧字体の「中原廣元」)を名乗っています。また、自らの書状の中で、一族は朝廷に仕えていたことや、父は大江維光で養父が中原広季であると述べています。このことから、血縁上は朝廷に仕えた貴族・大江維光の家系であるとみられています。
大江広元自身もはじめは朝廷に仕えていましたが、源頼朝と旧知の間柄であった兄である中原親能とともに鎌倉で頼朝に仕えるようになりました。広元は、頼朝が鎌倉に置いた財政や政務をつかさどる機関である公文所(鎌倉幕府成立後は政所)の初代の別当(長官)となりました。
坂東武者の集まりである自らの勢力に欠けていた文官を源頼朝が求めていたことと、朝廷の下級役人以上のキャリアアップの機会をうかがっていた大江広元の思惑が、見事にマッチングした結果であると考えられます。
大江広元の功績としてもっとも有名なものの一つが、地頭または守護・地頭両方の基礎となる役職の任命権を朝廷から認めさせてもらうように、源頼朝へ進言したことです。(諸説あり)
守護・地頭は、それぞれ、国・荘園単位に置かれた管理監督する役人のことです。地方で起きた問題を解決するためにその都度中央(鎌倉)から使者を派遣するのではなく、あらかじめ決められた主に在地の有力者がその任を負うというもので、その後、室町時代まで続くことになる制度です。源頼朝がこの守護・地頭の任命権を得たことが、鎌倉幕府のはじまりとする見方もあります。
大江広元が源頼朝に進言したという話は「吾妻鏡」に記載されている内容ですが、これは曲筆されたものであるという考え方も多いようです。守護・地頭の基礎を築いたのが大江広元ではなかったとしても、それくらい大きな仕事をしたように見せたいと思わせるほど、影響力をもった人物だったのでしょう。
源頼朝の死後は、頼朝の子・頼家を支える「十三人の合議制」の一人に、大江広元も兄の中原広季とともに選ばれています。その後も広元は、北条時政・義時親子と協調路線を歩み、北条氏による執権体制の確立に加担していくことになります。
戦国大名や長州藩主の毛利氏に繋がる大江広元の系譜
大江広元の屋敷は、現在の鎌倉市十二所にあったとされています。大江広元の墓と伝わる五層の石塔も、十二所からほど近い、明王院裏の山中に建っています。
源頼朝法華堂跡(源頼朝の墓)の隣り、北条義時法華堂跡(北条義時の墓)の上にも大江広元のものと伝わる墓がありますが、これは、江戸時代に長州藩の毛利氏によって整備されたものです。
大江広元の子・毛利季光は三浦義村の娘を妻に迎えていたこともあり、広元の死後に勃発した、北条氏と三浦氏の争い宝治合戦で三浦氏側に付きましたが、これに敗れ、一族の多くとともに自害することになります。しかし、生き残った子孫が毛利氏を継ぎ、戦国時代には毛利元就を輩出することになります。
毛利氏の祖である毛利季光の墓も、毛利氏によって整備された大江広元の墓の隣りに建っています。
大江広元自身の功績というわけではありませんが、戦国大名や長州藩主となる毛利氏を遺したということも特筆すべき事実だと言えます。