源頼朝法華堂跡(源頼朝の墓)の隣りにある、北条義時法華堂跡(北条義時の墓)の奥の階段を登って行くと、大江広元、毛利季光、島津忠久各氏の墓が並んで建っています。
階段は2つに分かれていて、左側を登ると大江広元と毛利季光の親子の墓が、右側を登ると島津忠久の墓があります。
いずれも、鎌倉幕府が創設される源頼朝の時代から、幕府が全国的な勢力となる第2代執権・北条義時の時代のころに活躍した、鎌倉幕府の御家人です。
INDEX
大江広元と毛利季光 親子の墓
大江広元の墓
![大江広元の墓(撮影日:2019.02.26)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2021/12/9c472f94ae8336911d8a60cd3eac115d-1200x800.jpg)
大江広元は、鎌倉幕府の政所の初代別当として源頼朝を支えた側近の一人です。頼朝の死後は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家を支えるために発足した「十三人の合議制」の一人に選ばれ、北条氏の執権政治でも中心メンバーとして活躍しました。
この大江広元の墓は、江戸時代に長州藩主の毛利氏によって整備されたもので、本来の墓と伝わる石塔は自身の屋敷跡からもほど近い明王院の裏山に残っています。
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毛利季光の墓
![毛利季光の墓(撮影日:2019.02.26)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2021/12/4579d9ad8c0fea36051a38027fb38e4a-1200x800.jpg)
毛利季光は大江広元の四男で、毛利元就を輩出して戦国時代以降に中国地方で活躍し、江戸時代には長州藩主となる毛利氏の始祖です。このような縁で、毛利季光と大江広元の墓は毛利氏によって整備されています。
三浦義村の娘を妻に持つ季光は、1247年(宝治元年)に起こった執権北条氏と三浦氏の争い「宝治合戦」では三浦氏陣営について、最期は源頼朝法華堂で三浦一族とともに自刃しています。しかし、わずかに生き残った子孫によって毛利氏は受け継がれ、戦国大名や長州藩主へとつながっていくことになります。
なお、「宝治合戦」で滅んだ三浦一族の墓は、毛利季光らの墓を降った右手のやぐらにあります。
法号が刻まれた灯篭
![大江広元の墓・毛利季光の墓・島津忠久の墓の入口に建つ毛利家の灯篭(撮影日:2021.12.03)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2021/12/2f0c2a9c83ad102d52be51d498a8fb72-1200x800.jpg)
北条義時法華堂跡の入口に建つ二つの灯篭は、義時に関するものではなく、大江広元と毛利季光の墓に関するものです。
右側の灯篭には大江広元の法号が、左側の灯篭には毛利季光の法号が刻まれています。それぞれの墓も、この灯篭と同じように、右に大江広元、左に毛利季光というように並んでいます。
![大江広元の墓・毛利季光の墓・並んで建つ親子の墓(撮影日:2019.02.26)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2021/12/68390cc24585e516d5c2a304d3b6e0a1-1200x800.jpg)
島津忠久の墓
![島津忠久の墓(撮影日:2019.02.26)](https://miurahantou.jp/wp-content/uploads/2021/12/074581324d21b0770e32577378d26294-1200x800.jpg)
島津忠久は、薩摩島津氏の始祖です。源頼朝の時代に島津荘の地頭職に任命されています。忠久自身は鎌倉で生涯を終えています。
島津忠久は源頼朝の子(庶子)であるという説もあり、江戸時代後期、薩摩藩主の島津氏によって源頼朝法華堂跡に頼朝の墓を整備しています。忠久の墓も同じ時期に、島津氏によって、頼朝の墓の隣りに整備されました。