西来寺は、不入斗公園の西側に建つ、平安時代前期の弘仁年間(810年~824年)に創建された浄土真宗大谷派の寺院です。
創建当初は天台宗の「一乗寺」という寺院で、比叡山の学僧・定相律師によって創建されたと伝えられています。
鎌倉時代中期の1246年(寛元4年)、当時の住職・乗頓が、相模国国府津(小田原市国府津)に滞在していた浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の教えを受け、宗旨を天台宗から浄土真宗に改め、寺名も「西来寺」に改めたと言います。
戦国時代、三浦半島を後北条氏(小田原北条氏)が治めるようになると、浄土真宗(一向宗)の信徒を中心に起きていた反体制運動・一向一揆を恐れた北条氏直により、西来寺は浄土宗に改宗させられ、鎌倉・材木座の光明寺の末寺となりました。
しかし、1590年(天正18年)に、後北条氏が豊臣秀吉らに敗れると、西来寺は浄土真宗として再興されました。
後北条氏の弾圧によって浄土宗に改宗させられた際、時の住職・頓乗は、本尊を西来寺裏山の岩窟に隠し、横須賀・長浦の長願寺に逃れ、後に、京都に新たな「西来寺」を建立したと言います。不入斗の西来寺が再興されると頓乗も住職として戻りますが、現在も京都・伏見には、浄土真宗大谷派の西来寺が存続しています。
山号 | 大塚山 |
宗派 | 浄土真宗 大谷派 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来立像 |
創建 | 弘仁年間(810年~824年)※前身の一乗寺 1246年(寛元4年) |
開山 | ― ※開基が開山も兼ねていたものと考えられます。 |
開基 | 定相 ※前身の一乗寺 乗頓 |
西来寺の梵鐘は、江戸時代前期の元禄九年銘(1696年)の、横須賀市内に現存する最古の梵鐘(横須賀市指定重要有形文化財)です。
この梵鐘には、前述のような西来寺の歴史が刻まれています。西来寺は、明治時代以降、2度の火災によって寺の重要書類が失われてしまったと言いますが、梵鐘は寺の歴史を物語る、貴重な生き字引と言えるかもしれません。
INDEX
横須賀市内に現存する最古の梵鐘
第二次世界大戦中の金属類回収令によって、横須賀市内の寺院のほとんどの梵鐘は旧日本軍に供出され、武器等に再利用されてしまいました。そのため、戦前の梵鐘は、横須賀市内には、公郷町の妙真寺、東逸見町の浄土寺、そして、この西来寺など、わずかしか残っていません。
西来寺のすぐ隣りの不入斗公園には、終戦まで横須賀重砲兵連隊の練兵場が置かれていたなど、西来寺周辺の不入斗町から坂本町にかけては旧日本陸軍の施設が多くありました。そのような、軍の施設に囲まれていた寺院の梵鐘が供出を免れたというのは、不思議な感じがします。逆に、旧日本陸軍の信仰心に守られていたのでしょうか。
この西来寺の梵鐘は、江戸・深川の鋳物師・太田近江大掾藤原正次・同庄次郎正重による製作です。太田近江大掾藤原正次は、江戸時代から明治時代まで、11代に渡り、代々「太田六右衛門」と称する太田家の初代です。いずれも東京の、浅草寺の梵鐘や両国・回向院の銅造阿弥陀如来坐像などが代表作とされています。
三浦七阿弥陀の一つ・運慶作の阿弥陀如来像
現在の西来寺の山門(四脚門)は、1919年(大正8年)に、西来寺からもほど近い場所にあった柏木田遊郭・金亀楼の石戸磯五郎から寄進されたものです。もともと遊郭は横須賀中心市街の大滝町にありましたが、大火を契機に、明治中期に、現在の横須賀市上町3丁目付近にあたる柏木田へ移転してきていました。
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、この当時の西来寺には楼門があったことが記されています。
楼門とは、下層に屋根がなく、上層(楼上)にのみ屋根がある、2階建ての門のことです。多くは、楼上に仏像や梵鐘などを安置できるようになっているため、現在の山門である四脚門と比べて、大型の門だったことがうかがい知れます。
さらに、同書によれば、この西来寺の楼門には、本尊の阿弥陀如来像とは別に、楼上に三浦七阿弥陀の一つである、運慶作の阿弥陀如来像が安置されていたと言います。
この運慶作と伝わる阿弥陀如来像は、1902年(明治35年)の火災によって失われてしまったようで、現存していません。
荏柄天神社から伝わった宗祖・親鸞自筆の「天満宮の名号」
1902年(明治35年)の火災によって、運慶作の阿弥陀如来像とともに失われた西来寺の寺宝の一つに、鎌倉・二階堂の荏柄天神社にあった一乗院から受け継がれたという、宗祖・親鸞自筆の「天満宮の名号」がありました。一乗院は荏柄天神社を管理していた別当寺でしたが、明治維新後に神仏分離令が発令されると、廃寺となりました。
この「天満宮の名号」は親鸞が6歳のときに奉納されたと伝わるもので、「新編相模国風土記稿」の荏柄天神社の項目(鎌倉郡 山ノ内庄 二階堂村 上)に、荏柄天神社の神宝の一つとして、写しが大きく掲載されています。
なぜ、このような貴重な神宝が荏柄天神社から西来寺に渡ったのか分かりませんが、一乗院となんらか特別な縁があったからか、三浦半島周辺の浄土真宗の寺院のなかでも、それだけ西来寺が影響力を持った寺院だったからだと考えられます。
西来寺境内の見どころ
本堂
西来寺の歴代の住職は非常に教育熱心だったようで、1873年(明治6年)には、後に公郷村とともに合併して豊島村となる、不入斗・中里・深田・佐野の四村の児童のために、当時の住職が校長となり、本堂で不入斗学校が開かれました。
その後、不入斗学校は、就学する児童数の増加や町村合併によって、校舎の移転や周辺の学校と合併をしながら大きくなり、1889年(明治22年)の豊島村発足と同時に、緒明山(現在、横須賀市中央図書館や緒明山公園がある場所)に豊島小学校が開校しました。
明治前期に不入斗学校として使われた本堂は、1902年(明治35年)の火災によって失われ、その後再建した本堂も、1949年(昭和24年)に再び発生した火災によって焼失してしまいました。
現在の本堂は、京都・紫野の長堅寺から譲り受けた本堂を移築して、1954年(昭和29年)に完成したものです。
鐘楼(元禄九年銘の梵鐘)
山門周辺
西来寺の山門の門扉には、八ツ藤紋の木彫りの美しい彫刻が施されています。