多聞院は、大船の東端に位置する真言宗の寺院です。境内のすぐ横には熊野神社が鎮座しています。
また、ちょうど裏山の尾根に沿って大船の切通しが通っていて、六国見山のふもとにあたります。大船の切通しの途中から多聞院の墓地が見えますが、切通しから直接下ることはできません。
多聞院の本尊は七福神の一人・毘沙門天で、多聞院という寺名は毘沙門天の別称である「多聞天」に由来します。
この他、多聞院には、奈良時代に鎌倉を治めていたと言われる染屋太郎時忠(染谷太郎時忠)の娘の菩提を弔って建立されたという十一面観音(岡野観音)や、東京・巣鴨より移されたというとげぬき地蔵などが安置されています。
山号 | 天衛山 |
宗派 | 真言宗大覚寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 毘沙門天 |
創建 | 1579年(天正7年) |
開山 | 南介僧都 |
開基 | 甘糟長俊 |
染屋太郎時忠の娘は、3歳のときに大きな鷲にさらわれて、その遺骸は六国見山の山中で発見されたと伝えられています。今もその場所には、「稚児の墓」と呼ばれる供養塔が建っています。
多聞院に伝わる十一面観音(岡野観音)には、時忠の娘の遺骸が納められて、供養されたと言われています。この地には、多聞院が建立されるよりも前から十一面観音を祀った観音堂があって、後からその場所に多聞院が創建されたと考えられます。
かつては安倍晴明の伝説とともに北鎌倉・山ノ内にあった多聞院
多聞院の前身は、鎌倉・山ノ内の瓜ヶ谷にあった観蓮寺という寺院でした。
室町時代中期の1438年(永享10年)に発生した、第4代鎌倉公方・足利持氏と関東管領で山内上杉家第8代当主・上杉憲実が争った永享の乱では、山内上杉家発祥の地である山ノ内も戦禍に巻き込まれ、観蓮寺も衰退したと言います。
その観蓮寺を、安土桃山時代の天正年間に、代々大船村の名主をつとめた甘糟家(甘粕家)の先祖・甘糟長俊が大船の熊野神社の別当寺(神社を管理する寺院)として現在の場所に移転したのが、多聞院のはじまりと伝えられています。
鎌倉・山ノ内には、現在も八雲神社の境内に祀られている安倍晴明石や、民家の敷地に残るという晴明井戸など、安倍晴明の伝説があります。これらの山ノ内の安倍晴明にまつわる品々も、もとは多聞院が管理していたとされていて、これも前身の寺院が山ノ内にあったことを物語る言い伝えと言えます。