常楽寺は、1237年(嘉禎3年)に、鎌倉幕府第3代執権・北条泰時が、妻の母の供養のために建立した粟船御堂がはじまりです。泰時の死後、泰時の法名・常楽寺殿をとって、寺の名前になったと言われています。
北条泰時の墓は、仏殿の裏の竹林に囲まれた中に建っています。
常楽寺には、北条政子が娘の大姫と、大姫の許嫁だった木曽義高の菩提を弔うために創建したといういわれも残っています(「粟船山常楽寺略記」)。そのいわれが示すように、寺の裏山には、木曽義高の首塚があります。
また、常楽寺の梵鐘は、建長寺・円覚寺の梵鐘とともに鎌倉三名鐘の一つに数えられていて、国の重要文化財に指定されています。現在、この梵鐘は、鎌倉国宝館に寄託されています。
山号 | 粟船山 |
宗派 | 臨済宗建長寺派 |
寺格 | ― |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建 | 1237年(嘉禎3年) |
開山 | 退耕行勇 |
開基 | 北条泰時 |
常楽寺と同じ「じょうらくじ」と読む、鎌倉幕府初代侍所別当・和田義盛夫婦が願主となって運慶が製作した5体の仏像(いずれも国指定重要文化財)が安置されている寺院は、横須賀・芦名の浄楽寺です。
INDEX
名執権・北条泰時の墓
北条泰時は、鎌倉幕府第2代執権・北条義時の嫡男として生まれました。母は阿波局とされていますが、阿波局がどのような人物だったのか、詳しいことは分かっていません。
元服したときに、三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、後に北条泰時は三浦義澄の子である三浦義村の娘・矢部禅尼を正室に迎えます。なお、この、北条氏の宗家と三浦氏の宗家を結びつける婚姻は、源頼朝の命によるものでした。
常楽寺の「北条泰時が妻の母の供養のため建立」という由緒にある「妻」とは矢部禅尼のことなのかどうか、詳しいことは分かっていません。泰時と矢部禅尼は後に離縁しているため、泰時の後妻や側室のことである可能性もあります。
よく、北条泰時は、「名執権」だったと評されます。父の義時は、北条氏の執権体制を確立して、事実上、幕府の実権を握ることに成功しましたが、義時とその父・時政の時代は、度重なる御家人の粛清や将軍家の滅亡など、混迷を極めた時期でした。
北条泰時は、鎌倉の前浜(由比ヶ浜)で貿易ができるように人工の築港・和賀江島(和賀江嶋)を築いたり、和賀江島築港以前から貿易港として栄え、鎌倉に塩を供給する重要な塩田も有していた六浦と鎌倉市中を結ぶ朝夷奈切通(朝比奈切通し)を開削したり、政局や戦乱で名を残すというよりも、人々の暮らしを豊かにする政策を多く実現したことで知られています。
その中でももっとも大きな功績と言えるのが、武家政権のための法令・御成敗式目の制定でしょう。御成敗式目は、その後も、武家政権が続く江戸幕府の時代まで影響を与える、大ベストセラーの法令となりました。
北条義時の時代に、鎌倉幕府は承久の乱の勝利によって朝廷をも従わせる存在となり、全国的な政権になりました。しかし、それを統治するための法律は整備されておらず、鎌倉幕府創設以来の先例や道理と呼ばれた武家社会の慣習に基づいて治めていましたが、各地で紛争も多発するようになっていきました。
泰時はこのことを問題視し、これまでの先例や慣習、公家が用いていた法律などをもとに明文化し、幕府の法律として整えました。公家には漢文で記された律令が存在しましたが、難解だったため、御成敗式目は武士にも分かりやすい文体となっていることが特徴です。
北条泰時は亡くなる1年ほど前から体調を崩すようになり、ついに1242年(仁治3年)、60歳で病死しました。
北条泰時の墓は、自らが建立した常楽寺の仏殿裏の竹林に囲まれた中に、円通大応国師(南浦紹明)の墓、再中興・龍淵胤和尚の墓と並んで建っています。
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「常楽は建長の根本なり」
北条泰時が死没した後しばらくして、南宋から渡来した僧・蘭渓道隆が常楽寺の住持になりました。
蘭渓道隆は、本格的な禅宗である臨済宗を日本に広めた僧で、この頃に常楽寺も臨済宗になりました。1253年(建長5年)には、蘭渓道隆は、時の執権・北条時頼によって開かれた建長寺の開山(初代の住職)になっています。その後、建長寺は臨済宗を代表する寺院になり、鎌倉五山の第一位に列せられましたが、常楽寺は「建長の根本なり」として敬われ続けました。
山門
仏殿
文殊堂
木曽義高の墓がある常楽寺裏山
常楽寺の境内の左手をまわり込むようにして進むと、裏山に登ることができます。常楽寺の裏山の頂上には、父・木曽義仲の死によって自らも源頼朝によって殺された、木曽義高のものと伝わる首塚(木曽義高の墓)があります。
また、裏山の中腹には、開基・北条泰時の娘の墓、または、木曽義高の許嫁だった源頼朝と北条政子の長女・大姫の墓と伝わる祠もあります。その隣りには、粟船稲荷の祠が鎮座しています。
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大船の地名の由来
常楽寺の山号は「粟船山」と言いますが、この近くまで入り込んでいた入り江に、粟を積んだ船が出入りしていたためと言われています。「大船」という地名は、この「粟船」が転じたものであるという説があります(諸説あります)。