延命寺は、奈良時代の天平年中(724~749年)に、行基が自ら彫った延命地蔵菩薩座像を安置して開いたと伝わる古刹です。
鎌倉時代以降は、三浦氏や後北条氏など、逗子や三浦半島を治める、時の権力者の祈願寺となりました。
延命寺は、京急線の逗子・葉山駅や逗子市立図書館、逗子市役所などに近い、市の中心部に位置しています。やはり延命寺の近くにある逗子小学校は、1874年(明治7年)から新校舎が建設されるまでの5年間、延命寺にありました。
逗子市役所の隣りにある逗子の鎮守・亀岡八幡宮は、明治に入るまで延命寺が別当寺となって管理していました。
現在、延命寺に安置されている銅像阿弥陀三尊像は、もともと亀岡八幡宮に祀られていた仏像で、扇形の板材に阿弥陀三尊像が配された懸仏です。扇形の板材は復元されたものですが、阿弥陀三尊像は鎌倉時代後期の作と考えられています。
山号 | 黄雲山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | ― |
本尊 | 大日如来(金剛界) |
創建 | 天平年中(724~749年) |
開山 | 行基 |
開基 | 不詳 |
平安時代、弘法大師空海が延命寺に立ち寄った際、延命地蔵菩薩を安置する「厨子(ずし)」(仏像などを安置する収納具)を設けたことが、「逗子」の地名の由来になったと伝えられています(諸説あり)。延命寺の境内には、「逗子の地名発祥の寺」の碑が建っています。
INDEX
災害のたびに復興をくり返してきた延命寺
延命寺は長い歴史を持つ古刹ですが、現在見られる本堂や鐘楼などの建築の多くは、いずれも昭和後期以降に再建・改築されたものです。
明治以降の延命寺は、たび重なる災害に見舞われました。1896年(明治29年)の大火災では、鐘楼を残して伽藍すべてが焼失してしまいました。1923年(大正12年)に発生した関東大震災では、仮本堂など9棟が倒壊してしまいましたが、その2年後には旧本堂が再建しています。
現在の本堂は、弘法大師御誕生千二百年記念事業として、1977年(昭和52年)に完成したもので、このときより延命寺は「逗子大師」と号するようになりました。
延命寺境内の修行大師御尊像とお地蔵様
弘法大師ゆかりの延命寺には、弘法大師の修行時代の像「修行大師御尊像」が、本堂の左下に祀られています。修行大師像には、一般的に、遍路ができない人が参拝すると、修行大師が代わりに遍路をまわってもらえるという信仰があります。
延命寺の境内には、他にも、さまざまな仏像やお地蔵様が祀られています。
湘南七福神の「弁財天」・厨子弁財天
延命寺の厨子弁財天は、高野山から勧請されたもので、代々住職以外には公開されていませんでした。現在は、湘南七福神の「弁財天」として、毎年、元旦から1月10日までご開帳されます。
相模三浦一族・三浦道香主従七武士の墓
延命寺の境内右手に建つ7基の宝篋印塔は、相模三浦一族の三浦道香主従七武士の墓で、家臣である菊池幸右衛門が建立したものです。
三浦道香(義教)は、戦国時代にこの地を治めていた相模三浦一族の当主・三浦道寸(義同)の弟で、逗子・小坪にあった住吉城を守っていました。
三浦道寸率いる相模三浦氏は、相模国の中央に位置する岡崎城(現在の伊勢原市)を本拠地としていましたが、1513年(永正10年)、北条早雲(伊勢宗瑞)率いる後北条氏に攻められて、三浦半島に後退していきました。三浦半島の付け根に位置する住吉城も落城し、三浦道寸らは三浦半島の最南端の新井城まで退きましたが、3年間の籠城戦の末、最後は後北条氏に敗れ、相模三浦一族は滅亡しました。
住吉城での戦いの際、三浦道香ら主従七武士も落ちのびましたが、後北条氏に追いつめられ、最期は延命寺で自害しました。