横須賀・久比里の若宮神社は、三浦半島最大の河川・平作川下流にかかる夫婦橋の近くに鎮座する、旧久比里村の鎮守です。
平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した武将・千葉常胤の子孫とされる臼井宗左衛門(臼井惣左衛門)によって、戦国時代の1531年(享禄4年)に、鎌倉・鶴岡若宮明神の分霊を勧請して創建されたと伝えられています。
千葉常胤は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の有力な御家人の一人で、房総半島の下総国を本拠地とした千葉氏の第3代当主です。常胤は、鎌倉を拠点とした源頼朝の父・源義朝とも親交があり、後に頼朝が平家討伐の挙兵をした際に、頼朝に源氏ゆかりの鎌倉を本拠地とするよう勧めた人物とされています。
若宮神社を創建した臼井宗左衛門は鎌倉・大町の人で、久比里に移り住んだ際に、鶴岡若宮明神もこの地に勧請したと伝えられています。源氏と近しい間柄だった千葉常胤の子孫ですから、鎌倉在住当時から、鶴岡若宮明神をあつく信仰していたのでしょう。
主祭神 | 大鷦鷯尊(仁徳天皇) |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 1531年(享禄4年) |
祭礼 | 3月上旬 春祭・祈年祭 6月下旬 夏越大祓式 7月下旬 例祭・神幸祭(2024年の実績では、例祭は6月1日・2日) 11月下旬 秋祭・新嘗祭 12月下旬 年越大祓式 ※実際の日にちは異なる場合があります |
若宮神社の例祭は、梅雨の時期にあたる6月1日に執り行われていたため雨になることが多く、「久比里の下駄まつり」や「三浦の下駄まつり」などと呼ばれていたと言います。その後、7月下旬または8月上旬に行われるようになりましたが、2024年は熱中症対策等の理由によって、また6月初旬開催に戻っています(今後も継続されるかは不明)。
これからは、熱中症より雨のリスクのほうがまだましだと考えるお祭りが、他の地域でも増えてくるのかもしれません。
INDEX
「久比里」の地名の由来と浦賀との関係
若宮神社のくびれ石
江戸時代後期に編さんされた地誌「新編相模国風土記稿」によると、若宮神社(当時は若宮権現社)が鎮座する久比里(くびり)の地名の由来は、若宮神社の社殿の床下にある長さ2寸5尺(約76cm)あまりの石によると言います。この石は村民から崇敬されてきたもので、中ほどがくびれているため、この辺りを「くびり」と呼ぶようになったとされています。
久里浜との行き来を困難にしていた平作川
久比里は、平作川を挟んで久里浜エリアの中心部と隣接した地域です。現在は横須賀市の久里浜行政センター管内にありますが、昭和前期に浦賀町が横須賀市に編入されるまでは、浦賀エリアと結びつきが強い地域でした。
久比里と浦賀との間には、久比里坂と言う急坂があり山を越える必要がありますが、それよりも平作川の流れの方が地域を分断する理由としては大きかったのでしょう。かつての平作川は、現在よりも川幅が広く、その周辺も沼や湿地帯が多かったため渡るのもたいへんだったでしょうし、苦労して渡った先の久里浜も、江戸時代までは、港町として栄えていた浦賀とは比べるまでもなく小さな村だったということも、すぐ近くの久里浜ではなく山を越えた浦賀が好まれた背景にはあったのでしょう。
若宮神社と浦賀との関係を物語るエピソード
若宮神社を創建した臼井宗左衛門にゆかりがあると考えられる「臼井」という姓の家は、現在も浦賀から久比里にかけて多くみられます。
1983年(昭和58年)に若宮神社が火災にみまわれ、社殿を失った際には、救出された御神体は一時的に西浦賀の西叶神社に遷座されていたり、現在も若宮神社の神職は西叶神社の神職が兼ねていたりすることからも、久比里と浦賀との関係性をうかがい知ることができます。
若宮神社の主祭神・大鷦鷯尊(仁徳天皇)は、西叶神社の主祭神・誉田別尊(応神天皇)の子にあたります。もしかしましたら、臼井宗左衛門が鶴岡若宮明神を勧請した理由の一つには、近郷の中心的な神社であった西叶神社(当時は叶大明神)と、親子関係を築かせたかったという意図があったのかもしれません。
かつて、若宮神社の例祭では、勝海舟の筆による大幟が掲げられていたと言います。勝海舟は、幕末に咸臨丸で渡米する際、一時、浦賀に滞在していましたが、その際に依頼したのかもしれません。
東浦賀の東叶神社には、勝海舟が断食修行の際に使用されたとされる井戸が残る他、修行の際に着用した法衣が保存されています。
個性的なたたずまいの神社建築が見られる若宮神社
現在の若宮神社の社殿は、1985年(昭和60年)に再建されたものです。境内に建つ御社殿再建記念碑には、火災にあってから、わずか2年という短期間で再建することができたのは、氏子らの並々ならぬ思いがあってのことであると、刻まれています。
比較的近年に再建されたということとは関連性はないのかもしれませんが、若宮神社の調度品は、他の神社ではあまり見かけない個性的なものも見られます。
社殿正面の扉は、八幡神を祀る神社で多く見られる大きな左三つ巴紋が掲げられた、重厚な造りになっています。これは、通常の扉のさらに外側に二重に設けられた外側の扉で、夜間などは、状況に応じて閉ざされていることもあるようです。
また、社殿前方の灯篭は、神社で一般的に見かけるような石灯籠ではなく、電灯による金属製のものが建っています。おそらく二重の扉は古くからある様式なのでしょうけれど、こちらの灯篭はあきらかに近代的なものです。
これらがあいまって、若宮神社の社殿のまわりは、他の神社では感じられない、独特な雰囲気が漂っています。
若宮神社の境内社とその他の見どころ
若宮神社の社殿に向かって右手奥には、数多くの境内社が祀られています。
八雲神社
例外的に立派な鳥居と社殿が設けられているのが、八雲神社です。「新編相模国風土記稿」には、若宮神社の末社として牛頭天王が見られますので、こちらに相当するものでしょう。
境内社
その他の石祠は、かつて旧久比里村の村域に祀られていた社を、明治維新以降に若宮神社に合祀されたものと考えられます。
「新編相模国風土記稿」には、牛頭天王の他に、若宮神社の末社として稲荷、疱瘡神が、村内の神社としては神明社、金比羅社、水神社と言った名前が確認できます。
奉納砲弾
若宮神社の境内社の傍らには、奉納された砲弾が建っています。そのすぐ横には「征露紀念」と刻まれた石柱が倒された状態で残っていて、日露戦争の戦勝記念として奉納された砲弾であることが分かります。
旧鳥居の扁額と石柱
社殿の左手前方には、若宮神社のかつての鳥居の扁額と石柱の一部が保存されています。1985年(昭和60年)に社殿が再建された際に、老朽化していた鳥居も再建されています。