鎌倉巽神社(巽荒神)は、平安時代初期の801年(延暦20年)、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が蝦夷征討のためこの地を訪れた際に創建したと伝わる古社です。はじめは、現在、源氏山公園や葛原岡神社などがある葛原岡にありましたが、後にそのふもとに、寿福寺境内の鎮守として遷座されました。
現在の巽神社は、寿福寺境内からさらに遷り、若宮大路や小町通りと横須賀線の線路を挟んだ反対側に並行して走る今小路(かつては今大路)沿いに鎮座しています。
明治時代後期に発行されたガイドブック「鎌倉大観」には巽神社が森のなかにあると書かれていますが、現在は商店や住宅に囲まれた小さな境内が残るだけです。巽神社の存在を知らない観光客などは、そこに神社があることに気づかず通り過ぎてしまう人も多そうです。
主祭神 | 奥津日女神 奥津日子神 火産霊神 |
旧社格等 | 村社 |
創建 | 801年(延暦20年) |
祭礼 | 11月下旬 例祭 ※日にちは年によって異なる可能性があります |
「巽神社」という名前は、寿福寺の「巽」(「そん」。辰と巳の間にあることから「たつみ」とも読まれる)の方角(東南)に鎮座していることに由来します。現在地に遷座される前は、単に「荒神社」などと呼ばれていたと考えられます。
江戸時代前期に成立した地誌「新編鎌倉志」によると、この頃には寿福寺ではなく、同じ扇ガ谷にある浄光明寺の支院・玉泉院が別当寺(神社を管理する寺院)となっていました。このため、現在地に遷ったのは、江戸時代前期以前と考えられます。
INDEX
源氏ゆかりの源氏山や寿福寺に鎮座していた巽神社

巽神社の社殿は1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊したという記録が残っていますので、現在の社殿はそれ以降に再建されたものです。
時代をさかのぼると、巽神社の社殿は、平安時代中期の1049年(永承4年)に、河内源氏第2代棟梁・源頼義が修復したと伝えられています。
関東で起きた平忠常の乱の平定に大きく貢献した源頼義は、鎌倉を本拠地としていた平直方から所領を譲り受けるなど、東国支配の拠点にしていました。
鎌倉時代に寿福寺が建立される前までは、源頼義やその子・義家は寿福寺のあたりに館を構えたと言います。後に、源頼朝の父・源義朝もこの場所に館を構え、頼朝もまたここに館を構えようとするなど、寿福寺のあるあたりは、源氏にとって非常に縁深い場所なのです。
その裏山にあたる源氏山は別名「旗立山」とも呼ばれていて、頼義や義家が白旗を立てて前九年の役など東国征伐の戦勝を祈願したと伝えられています。
当時、源氏山(葛原岡)に鎮座していた巽神社は、鎌倉における源氏の守り神のような存在だったのかもしれません。
源頼義は鎌倉に鶴岡八幡宮の前身となる由比若宮(元八幡)を創建しますが、それは、前九年の役終結の翌年、1063年(康平6年)のことです。
その後、鶴岡八幡宮は源氏の氏神として、武運の神様として、若宮大路の最奥にどっしりと構える鎌倉の象徴のような存在になっていきましたが、少し気の利いたストーリーさえ与えられていたら、巽神社が今の由比八幡(元八幡)~鶴岡八幡宮のような存在になり得ていたのかもしれません。
鍛冶職人と関係の深いまちで かまど神や火の神を祀る
巽神社に祀られている御祭神は、一般的に、かまど神や火の神などと呼ばれる神様です。
巽神社の別名「巽荒神」の「荒神」とは、このかまど神や火の神と言った荒神信仰(三宝荒神)に由来するとみてまちがいないと考えられますが、平安時代初期に創建された神社のため、当初からこのような神様を祀っていたのか定かではありません。
また、巽神社の鎮座する扇ガ谷は、相州伝の刀工「正宗」やその後裔が住居を構えた土地でもあります。正宗ゆかりの神社としては、刀工「正宗」後裔の屋敷内に祀られていたとされる刃稲荷(現在も巽神社の近くに現存)や合鎚稲荷社(扇ガ谷内の無量寺谷にあったものが、現在は葛原岡神社境内に遷座)の存在が知られています。
偶然なのかもしれませんが、かまど神や火の神を祀る巽神社は、鍛冶職人と関係の深いまちに相応しい存在と言えます。


巽神社の境内社

鎌倉巽神社(巽荒神)周辺の見どころ







