無量寿院(無量寺)は、無量寺谷という地名が伝わる、現在の鎌倉市扇ガ谷1丁目付近にあったとされる寺院です。「新編相模国風土記稿」が編さんされた江戸時代にはすでに廃寺となっていて、京都の泉涌寺の末寺だったということ以外、創建や廃絶時期など、あまり多くのことは分かっていません。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」などによると、無量寿院は、鎌倉幕府創設以来の有力御家人である安達氏ゆかりの寺院であったことが読み取れます。
また、将軍家がたびたび立ち寄ったという安達氏の居館は、かつては、甘縄神明神社(鎌倉市長谷)のあたりにあったとされてきましたが、近年の研究では、無量寿院のあった無量寺谷か、御成町の今小路西遺跡あたりにあったとする説が有力なようです。
INDEX
発掘調査で明らかになった寺院庭園の跡
現在、無量寺谷には、事実上の鎌倉市の歴史博物館と言える、鎌倉歴史文化交流館が建っています。鎌倉歴史文化交流館は、もともと、個人の住宅「Kamakura House」として2004年に竣工されました。
この工事に先立って、無量寺谷では、大規模な発掘調査が行われました。
この発掘調査では、玉砂利を敷いた鎌倉時代後期の池や遣水の遺構、礎石建物跡、掘立柱建物跡、道路の跡などが発見されています。鎌倉では、夢窓疎石が岩盤を彫刻的手法によって庭園となした瑞泉寺庭園がよく知られていますが、この場所にも同じような岩庭があったと考えられています。
また、山すそでは複数のやぐら(中世の墳墓または供養の場)が確認されていて、庭園や建物跡などの遺構とあわせて、この場所に寺院があった可能性が高いことが確認されました。
やぐらの多くは、現在も鎌倉歴史文化交流館の敷地内で目にすることができます。
安達氏の無量寺と和田義盛の無量寺
無量寿院(無量寺)を菩提寺としていた安達氏は、安達氏の祖とされる安達盛長が、鎌倉幕府初代将軍(鎌倉殿)となる源頼朝が伊豆で流浪の身であった時代から従者として仕えていました。頼朝の死後も、盛長は、第2代将軍・源頼家を補佐する十三人の合議制の一人に選ばれています。
源氏将軍が3代で滅ぶと、幕府の実権を握った執権北条氏と姻戚関係を結び、安達氏は執権北条氏の外戚として幕府内の地位を確立していきました。
この頃、幕府No.2の座にいたのは三浦一族でしたが、1247年(宝治元年)、盛長の嫡男・安達景盛率いる安達氏が事実上しかけた宝治合戦によって三浦一族の排斥に成功しました。
幕府No.2の地位を得た安達氏は全盛期を迎えることになりますが、1285年(弘安8年)、盛長のひ孫にあたる安達泰盛の時代、執権北条氏の執事(内管領)だった平頼綱との対立によって、泰盛の一族は滅亡に追い込まれてしまいます。
この霜月騒動と呼ばれる鎌倉幕府内の政変は、幕府創設初期から続いた、執権北条氏と有力御家人の最後の争いでもありました。
無量寺谷の発掘調査で見つかった庭園遺構は、霜月騒動から8年後の1293年(永仁元年)以降に造営されて、室町時代前半までは存続したとみられています。
したがって、無量寿院は、霜月騒動で安達泰盛一族が滅んだ後も存続していたと考えるのが自然で、その後、室町時代以降に廃絶したと考えられます。
鎌倉から三浦半島を南に下った、横須賀の相模湾沿いに、無量寿院の名跡を継ぐという言い伝えが残る、無量寺(横須賀市長坂)という寺院があります。この無量寺は、平安時代後期から鎌倉時代前期に活躍した武将・和田義盛が、「三浦七阿弥陀堂」の第3番として建立したと伝わる寺院でもあります。和田義盛は、宝治合戦で安達氏が滅ぼした三浦一族の一人ですが、この戦いより前の1213年(建暦3年)に、一族もろとも滅亡しています。
この2つの「無量寺」に何らかの関係があると仮定すると、以下の二通りの説が考えられます。
1.鎌倉・無量寺谷の寺院は、もともと和田義盛が建立したもので、和田義盛一族が滅亡した後、安達氏に受け継がれ、後に、横須賀・長坂に移った。ただし、当時の慣例では、三浦一族が存続しているなかで、和田義盛の所領が、まったく別の氏族である安達氏に移るとは考えにくいです。
2.鎌倉・無量寺谷にあった、かつて安達氏の菩提寺だった寺院が、かつて和田義盛が建立した横須賀・長坂の寺院と統合した。
横須賀の無量寺には、室町時代になって、鎌倉の浄智寺から中国より渡来した竺仙梵僊を招いて臨済宗の無量寿寺となり、安土桃山時代に厳譽壽道が現在の浄土宗の寺院に改めたという由緒が残っていますので、この過程で2つの寺院が統合したと考える方が自然かもしれません。
刀工「正宗」ゆかりの無量寺谷または綱廣谷
無量寿院(無量寺)が廃絶、または移転した後の、江戸時代、この場所には相州伝の刀工「正宗」の後裔である綱廣の屋敷があったと伝わっていて、無量寺谷は綱廣谷とも呼ばれていました。
相州伝の祖・五郎入道正宗より5代後の廣正の時、後北条氏(小田原北条氏)第2代当主・氏綱より「綱」の一字を賜り綱廣と名乗り、以後、現在に至るまで「綱廣」の名前を踏襲しています。
2023年3月現在も、第24代綱廣が鎌倉の地で正宗工芸美術製作所を営んでいます。綱廣の拠点は、第22代の時代には、無量寺谷より鎌倉駅に近い、鎌倉市御成町に移転しています。
正宗ゆかりの地に建つ鎌倉歴史文化交流館のエントランスでは、第24代綱廣作の刀剣が展示されています。
刀鍛冶を守護する刃稲荷を前身に持つ合鎚稲荷
大正年間には、無量寺谷では、三菱財閥第4代当主の岩崎小弥太が母・早苗のために療養所を兼ねた別荘を構えていました。
この場所には、綱廣の屋敷があった江戸時代には、刀鍛冶を守護する刃稲荷が祀られていたと考えられています。刃稲荷は、1919年(大正8年)に、岩崎家によって合鎚稲荷として復興され、社祠や神狐像、参道、鳥居などが整備されました。
2000年には、当時この土地を所有していたセンチュリー文化財団によって、老朽化していた社祠が再建されましたが、その後、鎌倉市が土地を取得した際に、社祠や神狐像、参道、鳥居は、源氏山公園を挟んだ北側に鎮座している葛原岡神社に移設されました。
合鎚稲荷があった高台も、現在は鎌倉歴史文化交流館の敷地になっていて、見晴台として開放されています(雨天時は閉鎖)。見晴台からは、由比ヶ浜方面の鎌倉市街地を一望できます。