1180年(治承4年)、源頼朝は源氏ゆかりの地・鎌倉を平家討伐の本拠地として選ぶと、鎌倉のまちづくりに着手します。
その際、源頼朝の五代前の祖先にあたる源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して鎌倉の由比に祀った八幡神(由比若宮。現在の材木座にある元八幡)を現在の場所に遷して、鶴岡八幡宮をまちの中心にすえ、整備されていきます。
その後鶴岡八幡宮は、宗教的な施設というだけでなく、歴代の鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)によって、幕府の重要な祭事や儀式を行う宮殿的な役割を持つ鎌倉幕府の象徴的な場所として機能していくようになっていきます。
源頼朝が崇敬した鶴岡八幡宮は、頼朝亡き後も、後世の武家政権や東国の武士たちに「武運の神」として信仰されました。
主祭神 | 応神天皇 比売神 神功皇后 |
旧社格等 | 旧国幣中社 別表神社 |
創建 | 1180年(治承4年) ※前身の「由比若宮」の創建は1063年(康平6年) |
源頼朝が整備した鶴岡八幡宮は、今も昔も鎌倉のシンボル。
今でも鶴岡八幡宮が鎌倉観光の拠点として便利なのは、歴代の鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)によって鶴岡八幡宮を中心にまちづくりがされていったからであり、源頼朝がこの地を選んだ時点で運命づけられていました。

INDEX
鶴岡八幡宮を中心とした鎌倉のまちづくり

1180年(治承4年)、源頼朝は幽閉されていた伊豆で挙兵しましたが、石橋山の戦い(神奈川県・真鶴付近)で敗れると、船で安房(千葉県・房総半島南部)に逃れます。
頼朝は再起を図るため東国の武士たちを中心に加勢を要請しながら、鎌倉に入ります。
鎌倉は、1028年(長元元年)に源頼義が平忠常の乱で武功を挙げて所領となって以来ゆかりのある場所で、父・義朝の館があった場所でもあり、頼朝はその場所で自分が源氏の正統な後継者であることを宣言します。
頼朝は、南を海に面し、その他三方を山で囲まれている天然の要害である鎌倉の狭い平野部の最奥である現在の場所に鶴岡八幡宮を勧請すると、その東側に幕府の役所や頼朝の住まいである大倉御所(大倉幕府)などを築いていきます。
鶴岡八幡宮の東側は滑川の上流方面であり、そのまま朝比奈の峠を越えれば鎌倉の外港として機能した六浦にたどり着きます。(この時点では朝夷奈切通は開削されていませんが、その元になるルートはあったと考えられています。東京湾側の六浦は房総半島をはじめ東京湾を通じて海路で関東に通じる重要な場所でした)
六浦道(現在の金沢街道)と呼ばれるようになっていくこの道は、このあと鎌倉の東西の軸となっていきます。
1182年(寿永元年)には、平安京の朱雀大路を参考に、鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を、鎌倉の南北の軸になるように由比ヶ浜まで一直線に築きます。
鶴岡八幡宮を起点に、東西方向の軸である六浦道と南北の軸である若宮大路が交わるという、鎌倉中心部の骨格が形成されたことになります。
頼朝はこのあとも、六浦道沿いの谷戸に、1185年(文治元年)に父・義朝を供養するために勝長寿院、1192年(建久3年)に奥州合戦で戦死した源義経や藤原泰衡らを供養するために永福寺といった大寺院を建立します。(いずれも現在は廃寺)
北条氏による執権体制になってからは、手狭になった鎌倉中心部の北側(現在の北鎌倉)が開発されていき、1253年(建長5年)に建長寺、1282年(弘安5年)に円覚寺といった、当時最先端の文化である禅宗の大寺院が北条氏によって建立されていきます。


このように、幕府関連の重要な施設は鶴岡八幡宮を中心に広がりを見せていきました。
地理的にも鶴岡八幡宮が現代の鎌倉観光の拠点的位置づけになりやすいのは、このためでしょう。
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若宮大路 は現在も鎌倉のメインストリート
鶴岡八幡宮の参道である若宮大路は約1.8kmに及び、「日本の道100選」に選ばれています。名実ともに、現在も鎌倉のメインストリートと言える大通りです。
途中には三つの大きな鳥居がかかっていて、由比ヶ浜側から「一の鳥居」「二の鳥居」「三の鳥居」と言います。鎌倉駅近くの若宮大路に建つ鳥居が「二の鳥居」で、現在の鶴岡八幡宮の境内の入口に建つ鳥居が「三の鳥居」です。
若宮大路には、左手(西側)に小町通り、右手(東側)に小町大路がすぐ近くを走っていて、それぞれ異なる雰囲気を出しているのですが、どれも「鎌倉」をイメージするものであるから不思議です。
小町通りは比較的新しい道で、比較的小規模な土産物や飲食のお店が並ぶ道です。通り自体が観光スポットとして紹介されることが多いです。
小町大路は鎌倉時代にはすでに存在していた道で、かつては幕府高官や有力御家人の屋敷が建ち並ぶ、鎌倉のメインストリート「六大路」の一つでした。北条得宗家の屋敷跡に建つ宝戒寺や比企一族の屋敷跡に建つ妙本寺など、今でも多くの寺院や神社が残っていて、往時の名残を見ることができます。
現在の鶴岡八幡宮の前身である由比若宮(現在の元八幡)も、この小町大路からほど近い場所にあります。
若宮大路は小町大路よりあとに整備されていった道で、三つの大きな鳥居に象徴されるように、古都の大参道としての風格を感じられます。





全国的にもめずらしい構造の 段葛

若宮大路の二の鳥居と三の鳥居の間は、中央に一段高くなっている土手のような道があり、「段葛」と呼ばれています。全国的にもめずらしい構造の道です。
源頼朝が、妻・北条政子の安産を祈って造られたとも、海に近いためまわりが湿地帯で歩きにくかったため築いたとも、言われています。
以前は一の鳥居から続いていましたが、津波などの災害や、明治時代の横須賀線の建設などによって一の鳥居から二の鳥居のあいだは失われていきました。
段葛は、三の鳥居に向かって徐々に道幅が狭くなるように造られていて、遠近法によって実際の距離よりも長く見えるようになっています。これは、海側から攻め込まれた際の防御上の工夫です。
一度は歩いてみることをオススメしますが、通り沿いのお店にはアクセスしにくいことにご注意ください。(何か所か両側の歩道にアクセスできるような場所は用意されています)
鎌倉駅から鶴岡八幡宮を往復する場合、行きは若宮大路の両側のお店を観察しながら段葛を歩いて、帰りに寄り道するのが良いかもしれません。
旗上弁財天社 は恋愛のパワースポット

若宮大路を抜けて鶴岡八幡宮の境内に入ると、その両側に源平池が広がっているのが目に入ります。源頼朝が、家臣である大庭景義と僧侶の良暹らに命じて造らせました。
参道の左側が「源氏池」、右側が「平家池」と呼ばれています。源氏池には産(繁栄)の願いを込めた三つの島が、平家池には死(衰退)を象徴する四つの島が浮かんでいます。
源氏池に浮かぶ島の一つには旗上弁財天社が鎮座していて、橋で渡ることができます。源頼朝が挙兵した際に霊験があったと言われる弁財天を祀っています。現在は、鎌倉七福神の一つにも数えられています。
社殿の裏には政子石と呼ばれる祈願石があり、恋愛や夫婦円満のパワースポットにもなっています。


毎年春には、旗上弁財天社の前にある藤棚で、見事な白藤の花をつかせます。まるで、源氏の旗印である白旗のようで、こちらも見逃せません。

▼その他の鎌倉のパワースポットはこちら▼

モダニズム建築の傑作 鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム

平家池のほとりには、鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム(別途拝観料が必要)が建っています。
様々な視点から歴史や文化を伝え、鎌倉の新たな文化発信拠点を目指して、2019年に開館しました。
鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムでは、2023年1月9日(月曜日・祝日)まで、「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」がオープンしています。2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の登場人物の衣装・小道具や当時の鎌倉幕府を再現したジオラマの展示などがされています。
開館時間 9:30~17:00(最終入館16:30)
休館日 無休(展示替え休館日除く)
料金 大人 1,000円(高校生以上)、子ども 500円(小・中学生)
この建物は、かつて神奈川県立近代美術館 鎌倉館として使われていたもので、モダニズム建築の巨匠であるル・コルビュジエに師事した坂倉準三による設計です。
平家池に面したピロティと、直線を基調とした普遍的なデザインの建物は、DOCOMOMO(近代建築の記録と保存を目的とする国際学術組織)によって「日本の近代建築20選」に選出されている名建築です。
現在、神奈川県立近代美術館は、葉山と、鶴岡八幡宮にもほど近い場所にある鎌倉別館に、拠点を移しています。

静御前の悲しい逸話が残る 若宮

鶴岡八幡宮の境内は上段と下段に分かれていて、大石段で結ばれています。
下段の最奥には若宮(下宮)があり、その手前には舞殿(下拝殿)があります。
江戸時代に再建する前の若宮の本殿は、荏柄天神社に移築されて、現存する鎌倉最古の神社建築として残っています。また、これは、鶴岡八幡宮の主要な社殿としても最古の建築物になります。
源頼朝に白拍子の舞を命じられた静御前が義経を慕い舞ったという若宮廻廊は、現在、舞殿が建つ場所にありました。
舞殿ではさまざまな祭事や結婚式などが行われます。

参道沿いにある手水舎は、季節によって花手水で飾られていることがあります。見られた場合はついているかもしれません。

