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平坂・道路元標(平坂上)| 横須賀中央駅周辺の下町と上町を結ぶ知恵を求めて登る道

平坂・横須賀モアーズシティ駐車場出入口前より横須賀中央駅方面を望む(撮影日:2025.10.09) 横須賀
平坂・横須賀モアーズシティ駐車場出入口前より横須賀中央駅方面を望む(撮影日:2025.10.09)

平坂ひらさかは、横須賀市の中心市街地である下町地区(横須賀中央駅周辺の、若松町大滝町などの総称)と、その隣りの高台に位置する上町地区(上町深田台)を結ぶ、約300mの坂道です。京急線の横須賀中央駅の西口改札(横須賀モアーズシティ側)を出て、目の前に見える道が平坂です。
平坂下にあたる、横須賀中央駅前のペデストリアンデッキ「Yデッキ」下で、横須賀中央大通りに接続しています。

平坂上には、旧国道31号(現在の国道16号の前身)の終点と旧県道横須賀三崎線の起点だったことを示す「道路元標」の石柱が残されていて、かつては国道に指定されていた名残りも見られます(現在も、県道26号横須賀三崎線(三崎街道)の一部です)。

また、平坂の海側には、縄文時代早期前半のものとみられる平坂貝塚群平坂東貝塚平坂(西)貝塚)が見つかっています。この平坂貝塚群からは、縄を押し付けて文様を付けた撚糸文で、日本最古の貝塚の一つである国史跡・夏島貝塚(横須賀市夏島町)と同形式の「夏島式土器」や、「平坂」の名が冠された無文の土器「平坂式土器」、「平坂人骨」と名付けられた、飢餓のあとがみられる壮年男子の人骨などが発掘されています。

平坂の勾配は、全区間(横須賀中央駅前のYデッキ平坂上道路元標前)の平均で、約6.8%(約3.9度)ほどです(水平距離が300mで垂直距離が20.5mで計算)。驚くほどの急坂と言うわけではありませんが、けっして平な坂ではありません。

古くからの地元民にとっての平坂は、横須賀の本屋の代名詞的存在であった平坂書房の本店があった場所として、あるいは、平坂書房を連想させる地名として記憶されている方も多いでしょう(平坂書房本店の開店は1950年(昭和25年))。その平坂書房も、2017年に平坂の本店が閉店し、2024年末には最後まで残っていた馬堀店も閉店し、2025年現在、書店としての営業は終了しています。
平坂書房本店のあった反対側の通り沿いには、横須賀市立児童図書館があります(1974年(昭和49年)に開館)。児童図書館開館前は、緒明山(横須賀市上町)に移った現在の横須賀市立中央図書館がこの場所にありました。最寄り駅である横須賀中央駅から緒明山中央図書館へ向かう際には、この平坂を登って行く必要があります。
本屋と図書館という違いこそありますが、昭和から令和にかけての平坂のシンボルはいずれも本に関する施設でした。横須賀人にとっての平坂は、知恵を求めて登る道でもあったのです。

平坂の傾斜(撮影日:2025.10.09)
平坂の傾斜(撮影日:2025.10.09)
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上町へのアクセスと浦賀道のバイパスという2つの役割

Yデッキ(横須賀中央駅前)より平坂方面を望む(撮影日:2021.04.28)
Yデッキ(横須賀中央駅前)より平坂方面を望む(撮影日:2021.04.28)

平坂が、当時の横須賀町(旧横須賀村。現在の下町地区から米海軍横須賀基地方面にかけて一帯)と深田村・中里村(現在の上町地区)を結ぶ道路として開削されたのは、1877年(明治10年)のことです。

1865年(慶応元年)、江戸幕府の勘定奉行だった小栗上野介忠順おぐり こうずけのすけ ただまさの進言により、フランス人技師レオンス・ヴェルニーを首長に招き、横須賀製鉄所(後の横須賀造船所横須賀海軍工廠)の建設がはじまりました。横須賀製鉄所は、明治維新後の1871年(明治4年)に稼働が開始され、それまで小さな漁村だった横須賀軍港都市として急速に発展していくことになります。

当初、横須賀のまちは、横須賀製鉄所が建設された現在の米海軍横須賀基地周辺から発展していきました。山が海のすぐ側まで迫っていて平地が少なかった横須賀では、横須賀製鉄所建設と同時に海面の埋め立ても進められ、1867年(慶応3年)に完成したのが今の大滝町(の大部分)です。

大滝町から見ると、平坂横須賀製鉄所の反対側に位置していて、市街地が拡大していく中で、平坂の先にある深田村中里村に土地を求めるように開削されました。
また、さらに先にある浦賀方面との往来の利便性向上も、平坂開削の目的の一つであったと考えられます。

平坂が開削される前まで、横須賀町深田村・中里村浦賀方面との行き来には、浦賀道東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)が利用されていました。
横須賀からの浦賀道は、現在の汐入小学校裏や諏訪大神社横、良長院前などから入り、大勝利山(小屋の台)うぐいす坂を経由して、現在の上町に抜けて、聖徳寺坂を下り、赤門前で当時の海岸線に出て、浦賀方面に向かうと言うルートでした。大勝利山(小屋の台)うぐいす坂周辺は起伏があり道幅も狭かったため、平坂浦賀道のバイパスとしての役割も担うようになりました。

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国道16号の前身の終点を示す 平坂上の「道路元標」

道路元標(平坂上)(撮影日:2021.01.05)
道路元標(平坂上)(撮影日:2021.01.05)

平坂上の旧浦賀道と交わる道端(上町1丁目交番交差点より、一つ、横須賀中央駅側寄り)には、1919年(大正8年)の旧道路法によって置かれた、道路元標の石柱が残されています。「道路元標」とは、道路の起点・終点を示す標識のことです。
この平坂上道路元標は、ここが旧国道31号(現在の国道16号の前身)の終点と旧県道横須賀三崎線の起点だったことを示すものです。この場所に起終点が設定されたのは、かつての主要道(浦賀道)とそのバイパス(平坂)の結節点だったからでしょう。

現在の国道16号のように、横須賀浦賀方面との行き来の主流が米が浜通・日の出町経由となるのは、大正以降のことです。
明治後期まで、横須賀浦賀寄りの海岸には田戸崎(現在の横須賀市自然・人文博物館下あたりからヤマダデンキテックランド横須賀店あたりまでのびていた岬)が突き出ていて、危険を冒して海沿いを歩くか、水道トンネルを拡張した小さなトンネルしか通行する手段はありませんでした。
この田戸崎を切り崩して海面を埋め立て、安浦町ができたことにより、かつての浦賀道のルートは、平坂経由から海回りへと、さらに変化していくことになりました。

道路元標(平坂上)周辺(撮影日:2020.12.22)
道路元標(平坂上)周辺(撮影日:2020.12.22)
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日本神話にも現われる「平坂」という名前の由来

平坂・京急線ガード前より平坂上方面を望む(撮影日:2025.10.09)
平坂・京急線ガード前より平坂上方面を望む(撮影日:2025.10.09)

坂の途中に建っている「横須賀風物百選」の案内板によれば、「平坂」と言う坂の名前の由来は、「ヒラ」には平地という意味と同時に傾斜地という意味もあり、それを「サカ」と重ねて使うことによって、たいへんきつい坂であることを強調したものであるという説をとっています。

おそらくこれは、1962年(昭和37年)に横須賀の郷土史家・高橋恭一著で横須賀文化協会によって発行された「横須賀の地名」という本の説をもとにしていると考えられます。この中で、民俗学辞典などを引用して、「ヒラ」は “山側傾斜面” 、あるいは “方言として崖・坂・傾斜面・山の斜面など” を意味することがあるとして、「坂」という意味が重なり、矛盾はないとしています。

また、「古事記」や「日本書紀」などの日本神話に出てくる「黄泉比良坂よもつひらさか(黄泉平坂、泉津平坂)」も、現世と黄泉の世界を隔てる坂、またはそれらの境界と解釈されることが多く、「平坂」は日本の古語として古くから使われてきた言葉でもあります。

愛知県にも「平坂」(旧平坂町、現在の現在の西尾市の一部)という地名が存在します。偶然にも、平坂町が属していた幡豆郡には横須賀町という自治体もありました。愛知の平坂の読み方は「へいさか」ですが、合併後の西尾市の史料によると、もとは「ひらさか」だったとされ、やはり、「ヒラ」が坂・傾斜地を指すことに由来するとしています。

愛知の平坂は、三浦半島や横須賀ゆかりの三浦一族ともつながりのある土地です。江戸時代中期の1747年、平坂のあった西尾藩の藩主に、三浦義理みうら よしさと三浦義明・義澄・義村・家村の子孫)が就きました。
西尾市の史料によると、三浦義理の主な業績としては、平坂港の維持と新田開発があったとされています。平坂港西三河の主要な港の一つで、周辺の藩の年貢米などを江戸に送る拠点として栄えたと言います。

しかし、三浦家西尾藩との関係は長くは続かず、1764年、義理の養子・三浦明次みうら あきつぐの代に、美作勝山藩(現在の岡山県真庭市勝山)に転封されます。
美作国もまた三浦一族にゆかりがある土地で、鎌倉時代には一族の和田義盛が守護職に就き、室町時代には横須賀氏を称した三浦貞宗美作国高田荘の領主になっています。
三浦貞宗は、横須賀の平坂とは下町地区を挟んだ反対側の緑が丘に鎮座する、諏訪大神社を創建した人物であると伝えられています。
また、三浦明次の子孫にあたる大正時代の子爵・三浦基次は、高円坊日枝神社(三浦市初声町高円坊)そばの、和田義盛の孫・和田朝盛の墓と伝わる場所に「朝盛塚碑」を建立し、自身のルーツを顕彰しています。

横須賀と愛知の平坂の間に直接の関係はないと考えられますが、三浦一族つながりという点では無縁とも言えず、そこには、あまり知られていない、宗家(本家)滅亡後の三浦一族末裔の全国での活躍が見え隠れします。

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平坂・道路元標(平坂上)周辺の見どころ

平坂上方面

中里神社
中里神社なかざとじんじゃは、京急線の横須賀中央駅から、いわゆる下町地区とは反対側の平坂を登り切った先の、さらに小高い丘に鎮座する神社です。明治後期に、旧中里村の鎮守だった稲荷社と、同じく旧中里村...
緒明山公園(読書公園)
緒明山公園おあきやまこうえんは、横須賀・上町の小高い丘の上に広がる街区公園です。横須賀市最大の図書館である、横須賀市立中央図書館の目の前にあることから、「読書公園」という愛称が付けられています。天気...
うぐいす坂
うぐいす坂は、横須賀・上町から大勝利山(小屋の台)へ登る入口にある坂道です。かつての浦賀道(東海道・保土ヶ谷宿から金沢を経由して横須賀の東京湾側に沿って浦賀に至る「東浦賀道(東回り浦賀道)」)の一部...
神明社[深田台]
横須賀・深田台に鎮座する深田神明社は、旧深田村の鎮守です。現在は京急線の横須賀中央駅横から平坂を登り切った先に広がる上町商店街の、さらに山の上にありますが、かつては今の横須賀共済病院裏手にあたる...
龍本寺(米ヶ浜のお祖師)
龍本寺りゅうほんじは、鎌倉時代、日蓮聖人が、生誕の地である房総半島から鎌倉をめざして三浦半島へ舟で渡った際に滞在した米ヶ浜(かつての深田村。現在の横須賀市米が浜通、深田台周辺)に建立された、御浦...
平和中央公園
長い間「中央公園」として市民に親しまれてきた公園が、2021年4月に「平和中央公園」としてリニューアルしました。直線を基調とした幾何学的だった園内は、円をモチーフにした有機的な印象の公園に様変わりし...
横須賀市自然・人文博物館
横須賀市自然・人文博物館は、横須賀市の中心部から少し歩いた丘に建つ、平和中央公園の隣りにある博物館です。1954年に久里浜で横須賀市博物館として開館しましたが、1970年に自然部門が、198...

平坂下方面

DATA

住所 横須賀市若松町2丁目・3丁目、上町1丁目、深田台
アクセス
行き方

平坂下まで、京急線「横須賀中央駅(西口)」からすぐ

駐車場 なし(近隣にコインパーキングあり)
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